ナンセンス作家・井伏鱒二 ―同時代評を中心に―

滝口 明祥

 坂口安吾は「ピエロ伝道者」(一九三一)において井伏鱒二をナンセンス文学の「先駆者」と呼び、「茶番に寄せて」(一九三九)では「特異な名作家」として高く評価している。文壇登場時に牧野信一の推賞を受けたという点でも井伏と安吾には共通点があり、「FARCEに就て」(一九三二)を初めとする自身の文学論を構想する際、そこでは常に井伏のことが意識されていたに違いない。
一九三〇年前後において井伏は、中村正常とともに「ナンセンス文学」の書き手として認識されていたが、この時期の井伏作品については、現在に至るまで充分に評価されてきたとは言いがたい。作者自身そうした風潮に荷担したことも確かだ。後年になるほど井伏の全集類からは初期作品の多くが削除され、或いは大幅な改稿が施されているのである。だが、井伏の初期作品はそのような低い評価しか受けられないようなものなのだろう か。また、井伏作品に付された「ナンセンス」という呼称は何かの間違いだったかのように言われることも多いが、少なくとも井伏作品を当時の読者たちに「ナンセンス」として受けとらせたものが何だったのかについて考える必要はあるだろう。
 「しかめつ面の絶望の思想家や、逃亡した農民の子弟や、革命実践者たちの集つた文壇に、笑ひを本当に持参したのは井伏鱒二である」と伊藤整が書いているように(「展望」一九四九.三)、一九三〇年前後に井伏作品は、その異色さがおおいに注目を集めた。果たして井伏作品の何が人々の注意を引いたのだろうか。本発表では同時代評などを手がかりに、「谷間」(一九二九)や「炭鉱地帯病院」(一九二九)などの井伏の初期作品がもっていた魅力について考えてみたい。そのことはまた、同時代の文学状況の見直しにもつながるはずである。




坂口安吾 戦後の笑いの方法

浅子 逸男

坂口安吾のファルスは、昭和六年の「木枯の酒倉から」からはじまり、「風博士」、「村のひと騒ぎ」、「朴水の婚礼」という四作品によって考察されている。たしかに安吾的ファルスと言いたくなるのはこの四作品なのだが、笑いをもたらす安吾の作品についてはこれまでの考察で通用するのであろうか。
 たとえば、『安吾史譚』の「勝夢酔」、あるいは『安吾新日本地理』の「長崎チャンポン」などは、戦後すぐに書かれた文章の延長線上にあるように見えながら、まったく違う様相を呈しているのではないだろうか。「道鏡童子」と「道鏡」の差異はどこにあるのか。これは、また、戦後の天皇観と、道鏡というまさにトリックスター(いまさら古いね)が置かれた位置に関わるのではないかと思っている次第だが、今回は、駒ん奈師匠の前座が務められるということで汗顔にして光栄のいったり来たりなのであります。

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