噴出し、浮遊するセクシュアリティ ―― 「戦争と一人の女」と〈肉体文学〉

天野知幸

一九四六年一〇月、『新生』に発表された「戦争と一人の女」と、その翌月、『サロン』に発表された「続戦争と一人の女」を扱い、様々な権力の装置が新たに張り巡らされることになった「敗戦後」という時代状況、および〈肉体文学〉の問題系を積極的に視野に入れながら、セクシュアリティおよびジェンダー表象のありようを考えてみたい。
「戦争と一人の女」では、法的な婚姻関係にない、娼婦であった過去を持つといった、そのセクシュアリティと「肉体」とが〈正常〉を逸脱する(ものとして作中で位置づけられる)「女」が登場する。国家および占領軍によって厳しく統制・管理されていた「敗戦後」の〈性〉をめぐる状況を鑑みても、〈現実〉から浮遊しているともいえるようなセクシュアリティを提示し、それと戦争/敗戦/戦後という時代状況とを連関させるという方法は、安吾の時代批評の精神と深く関わるものと容易に想像できる。
ただ、周知のとおり、この『新生』掲載版「戦争と一人の女」はGHQ/SCAP検閲により大きく変容させられた形で発表され、流布した。(他方、「女」の語りによる「続戦争と一人の女」は削除を免れた。)横手一彦氏、時野谷ゆり氏が論じるように、作品は屈折を抱えることになるわけだが、検閲による変容の問題について、時代批評の問題とあわせて今一度考えてみたい。また、〈肉体文学〉の問題系を召喚し、〈性〉をテーマとすることが戦争/敗戦/戦後の表象においてそれなりの有効性を持つと信じられるような認識の生成に、安吾の作品や言説がどう関与したのか、当時の資料をもとに明確にしたい。その思想性の希薄さから否定的に評価されることの多い〈肉体文学〉だが、それを再考する上で有効な見解を導き出せればと思う。
(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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