時間・歴史・自由―坂口安吾の戦後評論から

宮澤隆義

 本発表では、安吾の戦後の諸評論、特に「二合五勺についての愛国的考察」や「地方文化の確立について」などにおける発想が、安吾の時間観や「文化」観とどのように関わっているかについて論じてみたい。
 「二合五勺」などを論じる際にその歴史観はつねに争点となってきたが、それについては、彼の時間についての考え方からもとらえてみる必要があると思われる。大雑把に言って、安吾の時間観は「現在」と「現在以外」から成り立っている。そして「歴史」を「書く」こととは、その「現在以外」の時間を「現在」に接合することで、「現在」の内に伏在する可能性自体をも開示させる試みを含んでいるだろう。これは、安吾における「可能なもの」の追究という、彼自身が文学制作の課題としてしばしば述べていたことと繋がっている。
 そのような「可能なもの」の探索が、「自由」の問題として浮かび上がってくるのが、特に戦後に目立ってくる、安吾の政治的なものに対する関心なのではないだろうか。制限に突き当たった欲望がその充足のために必然的に要求する「独自の形態」(「日本文化私観」)を探求するということは、「肉体自体が思考する」などで語られている「知性」の働きとしてとらえられるだろう。安吾における「文化」という非常に微妙な単語は、そういった「独自の形態」を追究する諸運動の集合を示そうとした、総称的な名詞として見なせるのではないか。そしてそのような安吾の「文化」観にとっては、「都会」だろうが「田舎」だろうが関係なしにどこでも「地方」なのであり、そこにおいて「文化」が見いだせるかどうかは、そこに「知性」の働きによる「工夫と発明」が存するかどうかという点にかかっていたように思われる。
 このようなラインを引いてみることで、可能であれば、さらに後年に「安吾新日本地理」「安吾新風土記」へと進んでいった方向性についても考察することができればと、現時点では考えている。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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