ふるさとからファルスへ―「ふるさとに寄する讃歌」論

近藤周吾

 表題は「ファルスからふるさとへ」の誤りではない。たしかに、坂口安吾という作家の精神形成を考究するという立場にたてば、「ファルスからふるさとへ」の題が好ましいであろう。作家の生から死へと向かう時間軸の中において、初期のファルスから中期のふるさとへとそれが成熟していくという見取図が得られるからである。しかし、事後的に見出されるそのようなクロノロジカルな説明によっては、どうしても分析しきれない余剰があるように思えてならない。それは一言でいえば、ファルスとふるさとの〈間〉の問題である。ファルスという斬新な方法の中にもふるさとはあるであろうし、ふるさとの中にもファルスの方法は息づいているであろう。そのような〈ファルス/ふるさと〉を問うてみたいというのが本発表の動機である。
 そこで具体的に問題となってくるのは、やはり「ふるさとに寄する讃歌」(以下「讃歌」)ということになるであろう。周知の通り、従来「讃歌」は二つの関心によって対象化されてきた。一つは安吾の自伝的テクストとのつながりであり、もう一つは「文学のふるさと」へつながる契機としての関心である。両者の間には、安吾のふるさとなのか、それとも文学のふるさとなのかという点で相違が見られるにもかかわらず、〈ふるさと〉という語に引きずられていたという意味において奇妙にも一致していた。しかし、その一方で気になってくるのは、「讃歌」が発表された当時のファルスとの関連性である。安吾は「FARCEに就て」や「風博士」など、デビュー当時においては専らファルス作者としてあった。とするならば、「讃歌」のファルスとしての相貌をここで改めて浮上させねばならないのではないか。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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