坂口安吾の一六世紀―織田信長を中心に

佐藤健一

 研究会の事務局から課された題を、そのままいただくことにしたい。なぜなら、特集テーマである、坂口安吾と日本のルネッサンスを結びつけて考える発想が私になかったし、このテーマのもとに設定された、安吾の一六世紀に関する言説に向かう用意も、私にはなかったからである。私には、ただ急遽ピンチヒッターで書いた「信長」論があるだけだった。この打席で塁に出たのか出なかったのか、私にも分からない。そこで再度ピンチヒッターの打席に呼び戻されたということだろう。しかし、与えられたテーマと課題でいま何の準備もないことを、私はここで隠すわけにいかない。だからこそ、与えられた課題のもとで、これから考えてみる外ないわけである。
 いわゆるルネッサンスについてだけなら、昨年、妙なきっかけでファシズムとの関係で少しばかりの文献を読む機会があった。日独伊三国同盟の前年、イタリアに滞在した深尾須磨子の日記を翻刻して解説を書くためだったが、今回の特集テーマにふれて、次の一例をあげたい。
 一九三六年五月、イタリアがエチオピアを併合したその日、ヴェネチア広場でムッソリーニが演説した。ローマの平和は蘇った、と。そして、ローマ帝国の軍団よ、一五世紀の後にローマの聖なる丘に再生した帝国を讃えるために、君たちの旗と武器と精神を高く掲げよ、とエチオピアの首都アジスアベバに入城したイタリア軍をねぎらった。高らかにパクスローマーナをうたいあげるファシズムの勝利とは、古代復興のルネッサンスの精神を「国民」に自覚させるところにあった。
 イタリアでも日本でも、ファシズムは何らかのかたちで「ルネッサンス」を召喚する。花田清輝も、獄中の福本和夫も、日本のファシズム下でルネッサンスを発見した。坂口安吾の信長発見も同様である。「近代の超克」の会議の冒頭もルネッサンスをめぐる議論である。
 では逆に、ルネッサンスはファシズムを招来する契機をもつか。いわゆる歴史の必然は信用しないが、しかし個別の問題として、ルネッサンスからファシズムへの経路について考えてみたい。この問題を考えるのに、安吾の信長を通じて果たして可能かどうか予測もつかないが、前期の「信長」論の打席に立ったピンチヒッターが塁に出られるかどうか、その論の終わったところから自分で確認してみたい。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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