坂口安吾の戦前・戦中期テクストにおける建築表象

高木 彬

「日本文化私観」(『現代文学』1942・2)に登場する「小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦」については、新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)との類縁性が指摘されている(磯崎新「建築における「日本的なもの」」『批評空間』2000・4)。しかし、「美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もな」い、「必要のみが要求する独自の形」というその即物主義的な建築形態の表象は、実物の《小菅刑務所》(蒲原重雄、1930)に見られる、両翼を広げた鶴をかたどったような表現主義の建築形態(藤森照信『日本の近代建築』1993)とは、根本的に相容れない(むしろ正反対のベクトルを持つ)。これは何かの間違いだろうか。
 もちろん、工場や軍艦と並べるのによりふさわしい建築、たとえば、関東大震災後に日本で普及した合目的的な鉄筋コンクリート造のビルディングを、坂口安吾が目にしなかったわけではあるまい。にもかかわらず、あえて「小菅刑務所」を選択したところに、「日本文化私観」というタイトルの参照元であるブルーノ・タウトや、タウトが設計した表現主義建築への目配せを看てとることができるかもしれない。あるいは、「必要のみが要求する」という工場や軍艦の合理的形態のなかに表現主義を滑り込ませることが、安吾の建築表象における何らかの方法だったと指摘することも可能かもしれない。
 とはいえ、建築表象と実際の建築物との差異や乖離を、このように作家・安吾の意図や方法の水準においてのみ記述することは、一面的でもあるだろう。本発表ではむしろ、そうした差異や乖離を、モダン/モダニズム建築が受容者によってどのように受け取られたか、という受容の側面を考える手がかりとして捉えたい。そのために、ひとまず時期を戦前・戦中に絞った上で、そこからいくつかのテクスト(「帆影」「竹藪の家」「群集の人」「小さな部屋」「淫者山へ乗りこむ」「蒼茫夢」「女占師の前にて」「吹雪物語」「総理大臣が貰った手紙の話」「日本文化私観」など)をケーススタディの事例として取りあげ、建築表象の抽出・分析を試みる。

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