坂口安吾の天皇制批判と古代東アジア史論――「カラクリ」に対抗する「カラクリ」――

早川芳枝

 坂口安吾が1946年に発表した「堕落論」は、戦争中の政治と天皇制に関する問題点の指摘が大きな反響を呼んだ。この時期安吾は「天皇小論」(1946年6月)や「(続)堕落論」(1946年12月)、「天皇陛下にさゝぐる言葉」(1948年1月)などにおいて、民衆が陥りがちな行動様式とその結果としての政治の問題点、近代以前も含めた天皇制について積極的に自らの意見を表明している。
 安吾は「堕落論」において天皇制を「極めて日本的な」「政治的作品」と見なし、「(続)堕落論」では天皇制を「歴史的カラクリ」と位置づけている。後に「飛騨・高山の抹殺」(1951年9月)において「この原始史観、皇祖即神論はどうしても歴史の常識からも日本の常識からも実質的に取り除く必要があるだろうと思います」と表明しているように、安吾にとって古代史考察と天皇制の問題は一体のものであった。連載「安吾の新日本地理」などに見える独特の(日本も含めた)古代東アジア史論は、いわば「タンテイ」結果としての「カラクリ」を天皇制の「歴史的カラクリ」に対置させることで、「カラクリ」そのものの無効化を意図して展開されたと言える。天皇制という「歴史的カラクリ」に対して、安吾はどのような「カラクリ」を持って挑んだのか。一連の天皇制に対する発言と「安吾の新日本地理」シリーズを中心とする安吾の史論の分析を通して明らかにしたい。

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