織田作之助にとっての大阪弁
――総力戦体制下の〈地方〉・〈方言〉言説との関わり

尾崎名津子

 一九三七年の盧溝橋事件以降、総力戦体制が築かれるにしたがって、地方概念が体制主 導で新たな意味を担わされ、再編されていくことになる。これに大きな役割を果たしたの が、大政翼賛会文化部が指導する地方文化運動であり、その中では「地方文化」なるもの が実体化され、言揚げされていた。この時期、大阪に居続ける作家織田作之助は、大阪を 〈地方〉として積極的に引き受けていた。
 本発表では、一九四〇年前後の地方・「地方文化」言説を検討したうえで、織田の〈地方〉、 〈地方文化〉に対する発言を分析する。その際、常に問題化されていたのは、標準語政策、 それに伴って生じる「標準語」と「方言」の関係、多言語的社会編制と単一言語的社会編制との相克といった言葉の問題であり、就中方言の位置づけはどの局面でも重視されてい た。この地方・地方文化と方言という二つの側面から、織田の発言の戦略性について考察 したい。

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