政治の被占領、文学の被占領―石川淳「処女懐胎」から見えるもの

山口俊雄

 研究会のテーマが「一九四〇年代」ということで、敗戦後の、新憲法制定を大きな柱とする軍事占領(超越者によるコントロール)下での体制転換がどのように文学作品に描き込まれているかを、石川淳「処女懐胎」(『人間』一九四七・九~一二)を読むことにより見てみたい。この作品の同時代状況との密接な関係性がこれまできちんと受け止められてこなかった一方で、対米従属的な与党政府の横暴な非民主的「改憲」「解釈改憲」策動を目の当たりにする現今、この作品のリアリティ、アクチュアリティがはからずも回帰してきていると言える。当時、安吾や太宰と並べて「観念的」と批判されていた石川淳のこのアクチュアリティとは一体いかなるものなのか。今、石川淳を読むことに意味があるとすれば、「一九四〇年代=現在」という歴史的状況に否応なく向き合わされることにあるのではないのだろうか。
 「参照論文」として、今回の発表の「テクスト版」となる拙稿「石川淳「処女懐胎」論―奇跡とその引き受け、「民主化」とその引き受け」(『日本女子大学紀要文学部』六三、二〇一四・三・二〇、二七〜五五頁)は、最低限、予め読んできて頂きたい。欲を言えば、必ず触れることになる拙稿「焼跡のイエス」論(拙著『石川淳作品研究―「佳人」から「焼跡のイエス」まで』双文社出版、二〇〇五)、山根龍一「石川淳「焼跡のイエス」論―被占領下における「倫理」の可能性をめぐって」(『(日本大学商学部)総合文化研究』二〇一二・八)も読んでおいて頂けると幸甚至極。

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