一九四六〜一九四七年の安吾作品における〈肉体〉

片岡 美有季

一九四六〜四七年の安吾には、とりわけ女の〈肉体〉を焦点化し、女の欲望のありようを微細に描きだした作品が少なくない。「白痴」(一九四六年六月、「新潮」)をはじめ、「女体」(一九四六年九月「文芸春秋」)、「いずこへ」(一九四六年一〇月、「新小説」)、「恋をしに行く」(一九四七年一月、「新潮」)、「外套と青空」(一九四七年七月、「中央公論」)などがその典型としてあげられる。
 また、これまでの先行研究でも、「戦争と一人の女」(一九四六年一〇月、「新生」)、「私は海をだきしめてゐたい」(一九四七年一月「文芸」)、「青鬼の褌を洗う女」(一九四七年一〇月、「週刊朝日」二五周年記念「愛と美」)の三作品を系譜的に読み解き、そこに描かれた女の不感症を、安吾の重要なテーマのひとつである「孤独」という問題と結び付けて論じられることが多かった。
 本発表では、こうした先行研究を踏まえつつも、さらに、これまでほとんど言及されることのなかった「花火」(一九四七年五月一日、「サンデー毎日」臨時増刊号)に登場する「私」に注目し、同作品を詳細に読み解くことで、安吾における〈肉体〉的問題に新たな可能性を見いだしたいと考えている。それは、一連の作品群における不感症の女たちというテーマを再評価する試みであると同時に、安吾はなぜ〈肉体〉というテーマに迫るための方途として女の不感症を必要としたのか、という問いかけでもある。

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