〈肉体〉と〈実存〉―サルトルに対する坂口安吾

朴 智慧

安吾が昭和二十一年十一月十八日付「読売新聞」に寄せた『肉体自体が思考する』という小文は、『外套と青空』『女体』『戦争と一人の女』『白痴』等、〈肉体〉を前景化した一連の小説と見過ごせない緊張関係を持っている。「私はサルトルについてはよく知らない。」という否定的な告白から始まるこの文章は、しかし一方で「サルトルの魅力」、「小説が巧い」ことを述べ、そしてなお、「私は今までサルトルは知らなかったが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。」と言っている。あくまでもサルトルをよくは知らず、それとは「別個に」「書かねばならぬ。」とはからずも率直に吐露されているのは、サルトルへの親和と差異化の意志に他ならない。
 これまでにも安吾とサルトルの類縁性はたびたび指摘されてきた。しかし、多くは断片的な指摘にとどまり、歴史的な実証は為されてこなかったように思われる。例えば、『肉体自体が思考する』におけるサルトルの引用は『存在と無』であるとされているが(『坂口安吾事典』)は、これは誤りである。本発表ではサルトルへの親和と差異化を、同時代的な〈実存主義〉の内実に即して再検討しつつ、「肉体自体が思考する」というきわめて安吾的な矛盾命題について考察していきたい。

(当初予定されていたタイトルで掲載しています)

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