「終戦記念日の神話」を超えて

佐藤 卓己

坂口安吾が生きて一九八二年四月一三日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」制定の日を迎えていたら、どのようなコメントをしたであろうか。「続堕落論」(一九四六年)で、八月十五日の出来事を「軍部日本人合作の大詰の一幕」、「歴史的大欺瞞」と書いた安吾なら、やはり「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」と吐き捨てたはずである。
「八月十五日革命」と呼ぶ進歩派と、「終戦の御聖断」を称える保守派が背中合わせにもたれあう終戦記念日のメディア神話が定着するのは、安吾没年の一九五五年である。私は『八月十五日の神話』(ちくま新書・二〇〇五年)で、それを「記憶の五五年体制」と呼んだ。だが、坂口安吾研究においても八月十五日は疑うべくもない戦争記憶の起点となっている。近著『坂口安吾 百歳の異端児』(新潮社・二〇〇六年)で、出口裕弘は「日本国敗戦の日は私の誕生日だ」とわざわざ書き付けている。
それにしても、なぜ降伏文著調印の九月二日(アメリカのVJデイ)ではなく玉音放送の八月十五日が「記念日」に選ばれたのか。ロシアや中国の対日戦勝記念日も九月三日であり、八月十五日は特殊日本的な記念日に過ぎない。私は前著でメディア論から八・一五神話の成立プロセスを検討したが、ここでは八月十五日が「終戦記念日」となった経緯を国民世論の動向から再検討したい。まず一九四八年に衆参両院文化委員会の求めで実施された「祝祭日に関する総理庁世論調査」のデータと国会論議から、当時は国民の大半が「八・一五終戦記念日」を望んでいなかったことを明らかにする。祝祭日の世論調査で上位にあった第三位「建国の記念日」、第四位「お盆」、第五位「平和を祈念する日」、第九位「国のためになくなった人々を追憶する日」、第十位「国際親善の日(クリスマス)」は、国会審議の過程で軒並み不採用となった。それでも、衆議院文化委員会は、その総意として将来「講和条約締結の日」を「平和を祈念する日」とすることを決議しいていた。しかし、その決議はサンフランシスコ講和条約締結の際には、「単独講和」と「全面講和」という政治対立の中でほとんど忘れ去られていた。実際、日米安全保障条約締結の日でもある九月八日を「平和の日」と認めることは難しかったはずである。
だが、もし世論調査の民意に従って八月十五日「お盆」、四月三〇日「追憶の日」、九月八日「平和の日」が決めていれば、現在の「八・一五靖国問題」は起こりえただろうか? 国民の世論が八月十五日を「戦没者を追悼し平和を記念する日」(一九八二年制定)として受け入れるためには、四月三〇日「招魂祭」はもちろん、九月二日「降伏記念日」、九月八日「平和の日」まですべてが忘れ去られることが必要だった。「終戦記念日」は記憶の上ではなく、忘却の上に成立していたのである。
さらに、一般国民世論よりも政治意識が鮮明な右翼運動・左翼運動における「八・一五」輿論を独立直後の公安調査庁編『秘公安調査月報』における八・十五関連記事から検討する。
一九五〇年代に公安警察が注目していた「八・十五の状況」とは、日本人よりも在日朝鮮人活動家の運動である。一九四八年八月十五日に大韓民国が独立式典を開催して以降、八月十五日は終戦記念日よりも在日朝鮮人の「光復節」として政治的に注目された。その関連で、「八・一五=反戦・平和デー」の政治的起点は日本国内より朝鮮戦争にあると考えるべきなのである。 右翼団体の場合は、満州事変の立役者・石原莞爾を盟主とする旧東亜連盟の後継組織、東亜連盟同志会が「故石原莞爾四周年記念日」一九五二年八月十五日に結成式を行っている。八月十五日は「十五年戦争」の立役者・石原の命日でもある。朝鮮戦争期には、反共団体が「朝鮮人送還運動」を行うが、右翼の側でも「八・十五」は日本人の終戦記念日というより朝鮮人の「民族解放記念日」として理解されていた。当然ながら、旧軍人の諸団体も「八・十五」に特別な動きを見せていない。むしろ、「八・十五」は右翼の側では「国辱記念日」として注目されていた。「終戦」ではなく「敗戦」という議論は、左翼的=進歩的陣営の独占物ではない。右翼運動の中でも「敗戦記念日」という呼称がふつうに使われていたわけである。
結局、「八・十五終戦記念日」を右翼運動が受容した最大の理由は、「御聖断」という皇国史観のためだろう。こうした背景を考えるとき、「終戦」を八月十五日の枠踏みで理解することが二十一世紀の日本人に相応しいものだろうか。(終)

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