安吾・天皇・言論

浅子 逸男

坂口安吾は「続堕落論」のなかで、天皇制のカラクリについて述べているが、もちろん敗戦後に言論状況が変化したことがなければありえないことであった。ただ自由になったとは言え、言論については二重支配の構造があった。雑誌『真相』に載った「天皇は箒である」というコピーのついたグラビアページが問題となり、不敬罪が適用されるところだったのである。GHQによって検閲されている時期に、天皇に関する発言がチェックされるという構図である。これは議会にだされているうちに不敬罪そのものがなくなることでケリがつくという珍妙なオチまであった。
「天皇陛下にささぐる言葉」では、安吾はこのコピーについて言及しており、さらに宮城前で行われた食糧メーデーでのプラカードに書かれた「朕はたらふく喰つてゐる」の「朕」という一人称について述べている。
天皇に関する発言は戦後になってからなされているが、それ以前にも天皇の発言が背後におかれているものがあった。昭和十六年の「ラムネ氏のこと」は新村出の「御大切という言葉」がふまえられているが、新村の一文は昭和天皇の発言に触発されたものである。つまり天皇による「御大切」という耳慣れない言い方が淵源になったと考えられる。
「天皇陛下にささぐる言葉」で安吾が取りあげたのは、天皇のみが使った言葉であった。天皇という、一般から切り離された存在であることを問題にしているのである。天皇を崇拝することも、茶化すことも、どちらも天皇個人の実質は問われていなかったからである。
さて、安吾の原稿で活字にならなかったものがある。河原義夫宛書簡によって存在したことがわかる「宇治の火薬庫」である。河原義夫によれば「日本文化史観」の続篇にあたるエッセイで、昭和十二年から翌十三年まで京都に滞在していたときの体験が描かれていたはずである。宇治にあった火薬庫は昭和十二年に爆発事故を起こし、そのときは京都市内まで震動したそうである。もちろん安吾の文章が残っているわけではないので、何を言っても憶測にすぎないのだが、軍事機密であったため爆発そのものも伏せられたままであった。編集者によるいわゆる自主規制で掲載されなかったが、そのような 火薬庫についての文章を安吾は書いていたのである。

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