「私はきれいだという女たち」

井上章一

 ちまたには、女のヌードがあふれている。映画、ビデオ、写真……さまざまなメディアが、女の裸を売りものにしている。いっぽう、男の裸体像は、それほど見かけない。絶無ではないが、女の場合とくらべればかすんでしまう。
 けっきょく、今でも女は男にあやつられているのではないか。性的に隷属させられているからではないか。だからこそ、マッチョな男社会のなかで、おもちゃめいた役割があたえられている。そう考える女性学も、ありえよう。
 しかし、女のヌードがあふれだしてきたのは、きわめて現代的な現象である。二十世紀の、すくなくとも前半ごろまでだと、こういう光景は見られない。戦後に、女性の地位が向上したと言われだしてからなのである。女を裸にする、さまざまな営業が、圧倒的ないきおいでふえだしたのは。
 まあ、今でも女権の伸長は不徹底であると、そう考えられるかもしれない。しかし、二十世紀前半とくらべれば、事態は改善されている。男権的な社会はおとろえてきたし、わずかづつであっても、女権はのびている。そして、そんな時期に女のヌードは急増したのである。之を、隷属化という観点で、はたしてかたづけられるのか。
 ドイツのナチズムは、かなり男権的な社会をつくりだした。多くの勤労女性を、家庭にもどしている。はたらくのは男、女は家の中へという政策を、おしすすめた。そんなナチズム体制が、街頭へおきだしたのは、男の裸体彫刻である。マッチョなナチズムは、旧時代以上に、男の裸体美を強調したのである。こういうことを、いったいどう考えたらいいのだろう。
 どうやら、女性性に関する新しい女性史がいるのではないか。私はこのごろそう思いだしている。そして、そのヒントは、思いおこせば、坂口安吾からちょうだいした。
(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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