「安吾巷談」の生成と方法

時野谷ゆり

 坂口安吾の戦後の活動の第二の出発点を一九五〇年の「安吾巷談」に見る評価はすでに揺るぎがない。しかし薬物中毒と鬱病に苦しみ、作家として低迷していた一九四九年頃の安吾が、なぜ「安吾巷談」によって復活を遂げたのかという点は十分には論議されて来なかった。「安吾巷談」の「成功」について発表媒体である『文藝春秋』に目を向けてみるとき、この時期の『文藝春秋』が、編集長池島信平の下で新路線を展開していく転換期にあったことに気づかされる。そのまさに同時期に、低迷期にあった安吾が『文藝春秋』誌上に再び活躍の場を得ることの間には、何らかの連動性が働いていたのではないだろうか。一九四九年から一九五〇年頃の『文藝春秋』の編集路線と池島信平の編集手腕に注目し、作家と発表媒体の連動性という観点から安吾の復活について考えていく。
 そして安吾は、「安吾巷談」全一二回の連載を通じて、「巷談」という文章形式をどのように確立していったのか。「安吾巷談」の題材とその接近方法は回を追うごとに徐々に推移しており、池島信平を初めとする編集者と連携を取り、読者からの反響を柔軟に取り入れながら「巷談」というスタイルを作り上げていく安吾の試行錯誤の痕跡が見られる。またそこには、「巷談師」と自らを呼び始める安吾の書き手としての意識も浮かび上がってくる。その跡を辿りながら、「安吾巷談」の方法論を明らかにし、「安吾の新日本地理」等の一連のノンフィクション的作品も視野に入れながら、以後の「安吾もの」へと引き継がれていく「巷談」という文章形式の実質を捉えることを目指したい。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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