偶像破壊のリスクとセキュリティ
 ―「教祖の文学」の現代的射程

大杉重男

  坂口安吾は上は天皇から下は文壇の大家・将棋の名人に至るまで、あらゆる偶像に対する破壊的な批判者として知られる。その批判は常に「必要」と「実質」に裏付けられていて、読む者に衝撃を与える。しかしその説得力の故に安吾の偶像破壊そのものを偶像化することは、安吾に対する最大の裏切りになるだろう。そしてこの裏切りは現在に至るまで日常的に反復されている。この時問うべきなのは、安吾の偶像破壊の言説が危険なものとしてではなく無害なものとして読者に受け入れられる解釈の場が、どのようなリスクを軽減するセキュリティのシステムによって支えられているのかであり、ここでは「教祖の文学」を初めとする批評的テクストを素材にして、そのことについて考えたい。
 「教祖の文学」については既に山本芳明によって、小林秀雄という「文学的資産」を運用しようとする言説の一つという相対化の視点が提示されている(「〈文学的資産〉としての小林秀雄」、「文学」2004年11,12月号)。ただし山本は、戦後の小林を「小林の過去の言説は作者自身が管理を放棄した〈資産〉となり、小林秀雄という存在そのものも書き込み自由な〈空白〉として放置され」たと、完全に受動的な死体的存在と見なしているが、これは単純化のしすぎに見える。事実戦後の小林は確かに「作者」としては死んだとしても、「著作権者」としては延命し、「著作隣接権者」(出版社など)と協力して、「遺産」のセキュリティを管理したとも言える。そしてこのようなセキュリティのシステムに対して安吾の言説がどのように危険あるいは安全な関係を持つのか、それを問うことは没後五十年で今年一杯で著作権が切れるはずの(著作権保護期間が延長される可能性もあるが)安吾にふさわしい身振りであり、小林的な「作者」に対する安吾的「戯作者」の実質を検証することにつながるだろう。またそれは現代における批評の閉塞状況、とりわけ私がかつて「知の不良債権」(『早稲田文学』二○○一・一)において批判的に論じたような固有名を偶像化するポストモダン批評(とりわけ安吾の偶像批判を偶像化した柄谷行人)が遺した負債を償却するための模索の試みでもある。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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