坂口安吾と天皇(制)

渡部 直己

 文学と天皇(制)との関わりをめぐる場所に坂口安吾を招致することは、一面においてきわめて明瞭な成りゆきであり、他面では、その明瞭さの度に比例して複雑な問題をはらんでくるかにみえる。
 周知のとおり、彼は敗戦直後、比類なくまっとうかつ強烈に天皇(制)を批判した『堕落論』の著者である。だが、その小説作品が果たしてどの程度まで、当の批評性と伍しうるのか。この側面に目を注ぐや事態はいささか複雑なものとなるわけだが、本発表では、この複雑さを多少幅広い視野に絡めて、検討してみたいと思う。
 すなわち、(1)そのエッセーにおける主要概念の比較検討(『日本文化私観』の「美」←谷崎潤一郎『陰翳礼賛』、和辻哲郎『風土』、『FARCEに就いて』『堕落論』の「欲望」「全肯定」←三島由起夫『文化防衛論』など)を前提に、(2)小説のたんなる素材や主題における天皇(制)にとどまらず(この面では、坂口には狭義の「天皇」小説はむしろ少ない)、何を描くにせよ、その描き方の内に孕まれる天皇(制)的なものの所在や様態と、これへの妥協もしくは否認としてのエクリチュールの形態との接点を探ること(対象作品『白痴』『道鏡』『桜の森の満開の下』『青鬼の褌を洗う女』など)。
 ひとことで約言すれば、本発表は、小著『不敬文学論序説』のうちに坂口安吾を呼び寄せる試みとしてあるのだが、他方で、これはさらに、この作家の存在を介して小著をいわば「平成」天皇小説(阿部和重『ニッポニア・ニッポン』、島田雅彦『無限カノン』三部作、星野智幸『ロンリー・ハーツ・キラー』など)の検討へと向かわしむる機会を兼ねている。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです)

〈これまでの活動〉に戻る
inserted by FC2 system