安吾と戦後詩

押野武志

 安吾は、小説家であり、詩人ではない。「日本文化私観」の中で「美しく見せるための一行があつてもならぬ。美は特に意識して成された所からは生れてこない」といい、こうした「美的とか詩的という立場」に対して、「やむべからざる実質」に裏づけられた「散文の精神」「小説」を擁護する。確かに、安吾と戦後詩というミスマッチとも言える組み合わせではあるが、安吾の戦争体験、安吾とナショナリズムとの関係、及び戦後の仕事を再考する際に、世代もジャンルも異なる戦後の、とりわけ「荒地」派の詩人たちとの対比は有効なのではないだろうか。安吾自身、戦時中は詩的なものに対しては両義的なところがあり、ファシズムと共鳴する部分もあった。
 また、安吾は戦後詩人たちと全く接点がなかったわけではない。真の犯行動機を隠すために、大量殺人を試みる『不連続殺人事件』は、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』などが参照されていると思われるが、田村隆一と鮎川信夫が二人ともこの小説を翻訳している。「荒地」派の詩人たちが、探偵小説に関心を示し、多くの翻訳を行ったことは興味深い。笠井潔は、探偵小説のジャンルの形成には、戦争による大量死の経験が深く関わっているという独特な探偵小説論を展開しているが、大量死を経験した「荒地」派の詩人たちも、「単独者」(鮎川信夫)としての個別的な他者の死をいかに記述するかという問題に直面し、日本的な語法、抒情を殺そうとした。それにならえば、安吾は、日本的な私小説を殺そうとした。
 さらに、『不連続殺人事件』のファルス的側面が指摘されているが、この小説だけではなく、戦後の安吾のファルス的小説の可能性をみていきたい。『肝臓先生』の中には、時局のプロパガンダとして利用された宮沢賢治の「雨ニモマケズ」や戦争詩のパロディ詩が引用されている。これもまたファルスの実践の一つである。本発表は、詩と散文というパースペクティブから、安吾を読み直す試みである。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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