ナチズムの視線で読む「日本文化私観」

池田浩士

 ナチズム、つまり「国民社会主義」(Nationalsozialismus)は、その名のとおり「ナショナル」な「ソシアリズム」の理念を政治的・文化的に実現することを目指す運動だった。したがって、近代資本主義社会のなかで抑圧され見失われたと考えられる、いわゆるナショナルな文化の伝統を再生させ深化させることは、ナチズムの文化政策および大衆的文化運動にとって、もっとも重要な課題と目された。
 「伝統とか、国民性とよばれるもの」に「時として、このような欺瞞が隠されている」と坂口安吾が「日本文化私観」のなかで述べているテーマは、ナチズムの文化表現を見るとき、彼の考察を手がかりにして再考し、さらに深く掘り下げなければならない課題とつながってくるだろう。ちなみに、彼が批判的に言及するブルーノ・タウトは、ナチズムが敵視した表現主義の代表的な建築家だった。坂口安吾が現代の美をそれに見出した小菅刑務所は、その表現主義の建築様式の日本におけるもっとも代表的な成果だった。この表現主義を「アスファルト文化」として否定したナチズムは、たとえば、表現主義の演劇理念を徹底的に過激化した大衆野外演劇によって、「民族性・国民性」の「伝統」を現代に再生させ、「我々の実際の生活」と「真の美」を表現するのみならず、むしろ逆に芸術表現によって現実生活を作り変えようとさえしたのである。
 坂口安吾の、「真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである」という姿勢が、タウトの日本文化論に彼が見た表層的な伝統文化観に対する批判の次元を越えて、国粋主義的な欧米文化排撃に対する有効な反撃となり、「どうしても書かねばならぬこと」を「真に適切に表現」しうる足場の構築にまでつながりうるためには、「生活」と芸術表現との不可分の結びつきのなかで新しい表現文化を形成しようとしたナチズムの実践を一瞥することも、無駄ではないだろう。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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