安吾とナショナリズム

松本健一

 ハイマート・ロース(故郷喪失)、これは近代人を襲った宿命である。としたら、近代人はその宿命の必然として、望郷や郷愁といった病理を内にかかえこまざるをえなかった。
 この病理を、日本において〈望郷詩〉といったフィクションに仕立てた代表的な文学者が、石川啄木であろう。啄木は近代の日本人が喪失した故郷を、「ふるさと」として美しく謳いあげたのであった。
 その「ふるさと」の変奏が、保田与重郎における日本(もしくは日本古典)であり、中里介山における農村であり、三島由紀夫における天皇であり、そして谷川雁におけるアジアであったろう。それらを恋う思想が、それぞれに日本ナショナリズム、農本主義、天皇=原理主義、アジア主義となったのである。
 しかし、坂口安吾の〈郷愁〉は、それらのどれとも異なるものであった。安吾にとって郷愁とは、人間が生きてゆく、それも虚飾をとりはらって必死に生きてゆく場所(トポス)にむかって差し向けられた親和感にほかならなかった。
 「照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい。カチカチ光る高射砲、そして高射砲の音の中を泳いでくるB29の爆音。花火のように空にひらいて落ちてくる焼夷弾、けれども私には地上の広茫たる劫火だけが全的な満足をあたえてくれるのであった。
 そこには郷愁があった。…」
 安吾は「母」を憎み、「ふるさとは思うことなし」といい、「伝統の美だの日本本来の姿などというよりも、より便利な生活が必要なのである」と断じた。安吾が「なつかしい」とおもい、郷愁をおぼえたのは、肉体や性によって生きる人間の原初のすがたであった。人間が生き死にしてゆく原郷(パトリ)こそが、かれの愛する場所であった。かくて、安吾の原郷を恋うる心(パトリオティズム)は、日本ナショナリズムとも、農本主義とも、天皇=原理主義とも、アジア主義とも、訣かれてゆくのである。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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