安吾と〈運動〉― "物質性" と "逃れ去るもの"

中山昭彦

 これまであまり論じられなかったことだが、自らが親しんだ陸上競技やゴルフをはじめ、水泳、野球、相撲、剣道、競輪と、安吾が批評やエッセーでとりあげたスポーツは、かなりの数にのぼっている。それに、「青鬼の褌を洗う女」に姿を見せる相撲取りや、未完の長編「火」で扱われる野球など、スポーツを題材とした安吾の小説も決して少なくない。
そのようにスポーツを俎上にのせるとき、というより、更に広げて肉体の〈運動〉に照準を合わせるとき、安吾はしばしば思考と肉体という 物質性 とが格闘する臨界域を照らし出す。或いは、それらの〈運動〉は、言葉から逃れ去る思考の軌跡を、独特の手つきでたぐり寄せようとする際にも好んで召喚されるように思う。
 もっとも、ジェシー・オーエンスの加速力の理不尽な顕揚によって閉じられる「日本文化私観」や、あまりに唐突に力士の哲学が披瀝される「青鬼の褌を洗う女」などがそうであるように、そうした 物質性 や逃れ去るもの をまさぐる安吾の試みは、批評の論理や小説の構造をある種の破綻へと導かずにはいない。しかし、いっけん破綻とみえかねないこれらの箇所にこそ、 物質性 や 逃れ去るもの との複数的な遭遇において、言葉に飼い慣らされた思考を決定的に変貌させてしまう契機がはらまれているのではないか。
 いまのところ、そのような漠然としたいいぶりに終始する他はないのだが、この発表では、こうした仮説をもとに、〈運動〉に照準を合わせる際に垣間見られる安吾の可能性を探ってみたい。そうした可能性を露わにすることで、安吾が「人間」や「ファルス」といった 比喩 で指し示そうとする事柄が、抽象的なものであるどころか過剰なまでに具体的なものであり、しかもそれ故に、時代状況や支配的なイデオロギーとの交渉なしには発現しないことをも明らかにできればと考えている。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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