「文章の一形式」の同時代性―「無形の説話者」の帰趨―

杉浦 晋

 昭和十年に発表された坂口安吾のエッセイ「文章の一形式」は、文章(小説)の「真実らしさ」に関わる「形式」と「内容」の相克を解決する手段として、「完全に肉体を持たない四人称」=「無形の説話者」の設定に可能性を求めている。こうした提起が、同年の横光利一「純粋小説論」が代表する問題機制に照応していたことには、既にいくつかの指摘がある。その三年後に発表された長編小説『吹雪物語』において、上記の可能性が追究されたとみられる点についても、また同様である。
 今回の発表では、これら先行論の示唆をふまえつつ、以上のような安吾の営為を同時代の文学状況の中で、更に相対化してとらえてみたい。目下、そのための具体的な参照項として想定しているのは、横光に加えて、石川淳と小林秀雄である。たとえば安吾の「狼園」(昭10)から『吹雪物語』への歩みと、石川の「佳人」(昭10)から「履霜」(昭12)や『白描』(昭14)に至る歩みとは、明らかに相似しつつ、同時にある決定的な乖離をも示している。また石川の「短編小説の構成」「文章の形式と内容」(共に昭15)といったエッセイは、より象徴的な「無形の説話者」の可能性の提起として読みうる。小林については、そのドストエフスキー理解の一面が、「文章の一形式」に示された安吾のそれに照応するとみなされる。
 このような相対化の作業を通じて、安易な相対化を許さないクリティカル・ポイントを、安吾の営為に指摘できるところまでゆければと考えている。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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