坂口安吾と等身大の知

高原英理

 坂口安吾のテクストをジェンダー論的に読む場合の一例を示したい。
 ここではジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』に代表されるような視点を前提とする。それはあらゆる「性の原形」という発想を否定し、「男らしさ/女らしさ」だけでなく、性別という区分さえ歴史的なものと考え、性別によって形成されたアイデンティティに疑問を提示する。またジェンダー論的批判は論理の政治性を追求する。従来の哲学・思想、およびそのシステムによって発言の正当性を獲得してきたすべての言説に対し、論理の正誤ではなく、言説の発せられ方・提示方法と背景事情、提示する人間の所属とその論理の構成する特定の共同体への利権を読み取ろうとする。
 坂口安吾はジェンダー・スタディという発想の成立する以前の書き手である。ゆえに、それをジェンダー認識的に劣る、と簡単に結論づけることに私は強く反対する。男性中心的認識が当たり前であった時代にもかかわらず、実生活的題材から書かれたテクストにおいて安吾は女性への冷静かつ受容的な認識を書き残しており、注目に値する。
 ところが安吾の小説が実生活を離れ、伝奇ものと呼ばれるような幻想的な内容となった場合には、個への視線とは異なるジェンダー的不均衡の圧力が噴出する。一般には名作とされる『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』『紫大納言』などがそれである。そこでは定型的な「運命の女」に非物質レヴェルの優位を認め、彼女らを人間以上の異物として崇拝もしくは畏敬しており、その構造は天皇制を支える心理のそれに等しい。
 一方、『堕落論』『日本文化私観』などの評論では美的形式を否定し「実質重視」を強調している。この態度がそのまま小説に反映されたものとして『金銭無情』をあげたいと思う。そこでは物質的な必要性によって葛藤が生起する唯物的世界が展開する。こうした分野に安吾の最良の認識が示されていると私は考える。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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