道徳批判としての「堕落論」またはイデオロギー批判としての「青鬼の褌を洗ふ女」

林 淑美

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであらう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考へるからだ。政治上の改革は一日にして行はれるが、人間の変化はさうは行かない。
 たとえばこのくだりをもつ「堕落論」「続堕落論」(昭和二十一年四月、十二月)の示唆する射程は深く広い。「堕落論」は天皇制や武士道を人性の必然からなるもの、として批判する。それは坂口安吾の標的にしたのが、政治制度としての天皇制ではなく、制度に安住し制度を再生産する人間の意識だったからである。敗戦後政治制度の改革が行われて、大政翼賛運動下の官製国民道徳の規制から自由になったときにはじめて、人は、人間を不可解に限定する意識の制度の不自由さに気づくのである。そしてその意識の制度に逆らうもっとも「便利な近道」が〈堕落〉だと安吾はいう。〈堕落〉という言葉で焦点化されるのは、意識の制度というものをとりわけ構成している道徳意識を撃つ意志なのである。「堕落論」が現在もそしてこれからもラディカルであり続けるのは、そうした道徳意識やそれに基く社会規範を撃つ意志がたんなる旧道徳の批判というようなものからはるかに超え出て、道徳意識がもっとも効力をもつ制度の再生産過程を切断することに照準をあわせたことにあった。したがって「堕落論」二篇は道徳批判のための書なのであるが、さらに重要なことは、これらが、イデオロギー的再認のカラクリ的機能を鋭く突いていることである。この点が、「堕落論」二篇をして、文学の本質的課題に真っ向から肉迫するものとなさしめたのである。それは次のようなイデオロギーの概念―個人主体が、超個人的な諸現実と彼ないし彼女との生きた関係を、思い描いたり想像したりするとき、そのような思いこみを可能にする表象構造がイデオロギーである―と関係してくる。今回の共通テーマにかかわらせれば、「青鬼の褌を洗ふ女」の主人公は、こうした表象構造の中にいない稀有な存在である。
 したがって、ジェンダーのイデオロギーは彼女の存在そのものによって根底から発かれるのである。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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