研究集会印象記


第36回 印象記

第35回 印象記

第34回 印象記

第33回 印象記

第32回 印象記

第31回 その1その2

第30回 その1その2

第29回 その1その2

第28回 その1その2

第27回 その1その2

第26回 その1その2

石川淳研究会・坂口安吾研究会・太宰治スタディーズの会 共同開催研究集会 その1その2

第25回 その1その2

第24回 その1その2

第23回 その1その2

(第22回は東北・東日本大震災の影響で中止になりました)

第21回 その1その2

第20回 その1その2

第19回 その1その2

第18回 その1その2

第17回 前半後半

第16回 前半後半

第15回 前半後半

第14回 前半後半

第13回 前半後半

第12回 前半後半

第11回 前半後半

第10回 前半後半

第9回 前半後半

第8回 前半後半

第7回 前半後半

論集刊行記念合評会

第6回 前半後半

第5回 前半後半

第4回 前半後半

第3回 前半後半


第36回研究集会


坂口安吾研究会 第36回研究集会(2020年12月6日 オンライン開催) 印象記
早川 芳枝


1、《研究発表》浅子逸男「三十歳」における虚構について(二)――「女の人」という言い方――

 主に「青春論」(昭和17・11)と「三十歳」(昭和23・7)で触れられる矢田津世子と彼女をめぐる表記、そこから垣間見える安吾の心情の揺れを丹念に追った研究発表であった。「青春論」において頻出する「女の人」という表記は、「三十歳」に記されている矢田津世子とのやりとりから生まれたもので(つまり「三十歳」は「青春論」執筆当時を回想したものであり)、「女の人」という表記はほぼ矢田津世子に対して特権的に使われている言葉であるという推定をされた。その上で、矢田津世子宛て書簡の内容、「青春論」の「この女の人はもう僕の心に住んでゐない」という記述などから、「青春論」は矢田津世子に向けた思いがこめられて執筆されたものであるとの見解を示された。それだけにとどまらず、あえて矢田から指摘されたとおりの「女の人」という表記を繰り返していること、矢田本人が読めば分かる内容であることから、矢田が読むことを前提にして書かれたのではないかという見通しを示された。
 今日の読者としては矢田が亡くなっているという前提に立って読みがちであるが、この「青春論」は昭和17年に発表されており、矢田はまだ存命で病床についていた時期である。後に大井広介が「坂口安吾伝」で昭和19年のこととして、安吾が矢田津世子の死にショックを受けていたことを描いている。この時安吾は「下らないことがハッキリ一 段落した」「今まで偶像だつたものをハッキリ殺すことができた」と(文学者なら現実の矢田本人とは無関係と分かるが)直截な表現で書いたことが、病に伏せっていた矢田に追い打ちをかけてしまったのではないかと後悔の念に打たれていたのではないか。矢田への未練というよりも、自らの筆が矢田を傷つけたであろうことを想像し、そのことに対する自責の念に駆られていたのではないかという見立てが披露された。
 質疑応答では、日本近現代文学における「私小説」と安吾の自伝的小説の差違については、安吾の虚構意識を分析する必要があること。スタンダールを読むことでさらに見えてくるものがあるのではないかという今後の課題。スタンダールの話とともに矢田に伝わっており、2人の関係を知っている周辺人物には、それと分かる内容だったかもしれないという見通しが示された。

2、《座談会》坂口安吾研究会二十周年記念座談会
(参加者)浅子逸男、大國眞希、鬼頭七美、宮澤隆義
(基調報告)山根龍一
(Zoom管理)時野谷ゆり
(司会)原卓史、福岡弘彬

 まず初めに山根氏による基調報告があり、2000年の坂口安吾研究会発足を境に、その前史と発足以降の研究動向や研究環境の変遷について情報共有がなされた。また、この座談会で取り上げたいテーマとして、@坂口安吾研究会(あるいは安吾研究)を〈外部〉にどう開いていくか、A坂口安吾研究会(あるいは安吾研究)にとって〈外部〉とは何か、B他の研究領域と比べて安吾研究は充実してきたか(課題は何か)、Cこの二〇年で論究される作品/テクストの傾向は変化したか、の4点が提示された。
 以降登壇者の方々が、安吾研究の動向とそれが自らの研究の履歴にどのように関わっているかという観点で自己紹介をされ、上記の4つの問題について見解を披露された。浅子氏が柄谷行人の業績について、当時安吾研究者にとってはショックだけど、世間への影響はまだ小さかった。当時は柄谷行人がこんなに大きな存在になるとは思っていなかった。当時の感覚と今の感覚は違うことを強調されていた。若手にとっては「研究史」に属する出来事をリアルタイムで経験された証言を聞けたことが筆者としては特に興味深かった。第一回目の坂口安吾研究会で研究発表をされた大國氏は、今から思い返すとジェンダーやナショナリズムなどの多くの切り口から読まれていたことが印象に残っていると回想され、続く鬼頭氏もある種の俗っぽさやまとまりのないエンターテイメント性が、多くの切り口からアプローチすることを可能にしているのではないかと指摘された。
 必ずしも安吾を専門にやっている訳ではない研究者が参入しやすい面があり、そこが外部に開きやすい/開かれている部分ではないかという点は参加者間である程度共有されている認識だと感じた。一方で、宮澤氏からは「横断的研究」自体もかなり制度化されており、そもそも「外部」自体もジャーゴン化していて、「外部」そのものが制度化されて外部ではなくなっているという指摘が挙がった。司会の原氏と福岡氏からは、「外部」について考える際、時代の主流となる研究方法と安吾の作品との相性があることや、大学の制度や資本の問題、大学という制度やアカデミズムの変化と安吾研を取り巻く変化がリンクしていることも考慮の対象になるのではないかという見解が述べられた。
後半では「外部」をめぐって、山根氏から外部があるという前提自体を問い直す必要があるのではないかという問いが立てられ、それを受けた宮澤氏はテキスト論でもなく作家研究でもなく、あえて坂口安吾という名の下に集められたものを読むというスタンスで研究するという方向性を提案された。続いて福岡氏は、安吾が使っている言語運用を作家論では捕まえられなかったものとして捕まえたいという意欲を述べられ、そのためには「ファルス」や「ふるさと」などの頻出する強い言葉からいかに離れて論じるかが問題になってきたという所感を表明された。
 さらに大原氏からの質問で、「外部」の問題なのに議論の枠組みが完全に日本内のドメスティックなものになっていることが指摘された。そして安吾の作品にはハイコンテキストな内容が多いが、それをどう一般的に開いていけるのか。これは翻訳する時に非常に障害にならないのか? どう翻訳されてどう読まれているのかが分からない状況で、我々はどうしていけるのか? という課題が提起された。

 今、まさに研究環境が変わりつつあり、大学という制度やアカデミズムも変化している渦中にあり、海外の研究者とも繋がりやすい状況になってきている。そうしたタイミングで座談会の機会を設け、過去から現在に至る研究動向と残されている課題、新たな状況だからこそ浮き彫りになってきている課題を明るみにできたことは、非常に有意義であったと感じる。今までの研究を踏まえて、これからの研究や新たな課題について長時間にわたる議論を交わす場に参加できたことは得難い経験であり、楽しい時間でもあった。

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第35回研究集会


第35回研究集会印象記
原 卓史


本多俊介氏「全集未収録「織田の死」および「吹雪物語」関連書簡等をめぐって」

 本多俊介氏は、今回の発表に先立ち、「坂口安吾はなぜ木村義雄を書いたのか」を、富山大学学術情報リポジトリ(二〇一九年一月)に発表し、それに続く安吾と将棋の関係についての調査報告を行った。その調査の過程で坂口安吾「織田の死」(『時事新報』一九四七年一月一二日)を発見したという。『坂口安吾全集』に収録されておらず忘れられていたが、一九四七年一月から六月までの『時事新報』の通読を通して存在が確認された。そして、「織田の死」については、やはり織田作之助のことを描いた「大阪の反逆」に内容が似ていること、織田の病状を安吾が楽観していたこと、織田の手入れのうまさなどの指摘を行った。
 発表の後半では、坂口安吾、太宰治、織田作之助の接点を紹介し、特に『現代文学』での接点に注目した。そして、「現代文学を語る」(『文学季刊』一九四七年三月)、「歓楽極まりて哀情多し」(『読物春秋』一九四九年一月)の二つの座談会が開催されるまでの三人の接点を整理した。そして、これらの座談会は従来の学説では一九四七年一一月二五日に開催されたとされていた。しかし、近年、七北数人氏によって一一月二二日と一一月二五日の二日に開催されたとの説が出され、その説を支持した。最後に、『坂口安吾全集』未収録の坂口安吾書簡竹村坦宛(一九三八年五月一三日)や、『吹雪物語』(竹村書房 一九三八年)の帯文の紹介があった。
 全集未収録資料の紹介があるときは、いつもワクワクした気持ちになる(最初にその資料にたどり着けなかった悔しさもあるが)。今回の本多氏の発表も例にもれず、ワクワクしながら拝聴した。「織田の死」に比して「大阪の反逆」の方が詳細に同内容のことが書かれており、たしかに既視感があったことは否めない。とはいえ、このように新たな資料の発掘があったことは喜ばしいものだ。竹村坦宛の書簡については、「何分命をこめた仕事ですので、一字一句も不滿なきを期し」とあり、安 吾の『吹雪物語』への思いが伝わってくるものであった。
発表を聞きながらワクワクが持続した一方で、話しが様々な方向へと展開していき拡散していっているようにも感じた。たとえば、「織田の死」についてはどのような調査を行い資料にたどり着いたかを報告した後、『時事新報』という新聞についての話や、時事新報の記者だった和田日出吉のこと、『時事新報』の文芸欄のことなど、様々なところへ話が移っていった。坂口安吾、太宰治、織田作之助の関係についても「織田の死」との関連から出た話題ではあったが、話がどこへ着地するのかが見えにくい発表でもあった。新資料だけで研究発表を行うことの難しさを実感した時間ともなった。
 共同討議では、織田作之助のゲラへの手の入れ方は織田作之助研究ではどのような研究成果が挙がっているのかという問いが出された。そこはまだ研究されていないのではないかという。坂口安吾、太宰治、織田作之助の三名の手が入ったゲラが現存していればと夢想せずにはいられない。この点が解明されていくこと(あるいはそのような資料が発掘されること)を望む。

劉小霞氏「「桜の森の満開の下」論」―語りの設定と主人公に与えられる呼称について―」

 劉小霞氏は、坂口安吾「桜の森の満開の下」の説話型式というジャンルのもつ文学の性格と、テクスト自体の形式と文体上の特徴を結び付けて考察すべきだという問題設定のもとに発表を行った。具体的には、文体と形式の面から語り手と主人公に与えられる呼称に注目し、主人公の内面の変化の過程を語り手がどのように語るのかについて検討するというものであり、「山賊」、「男」、「彼」と使い分けられる呼称の分析を行った。山賊は第一章でしか用いられないと指摘し、「男」は動作動詞とともに使用され主人公の考えや内面を現わすことがないのに対して、第四章で多用されるようになる「彼」は主人公の気持ちや内面とともに描写されると指摘した。その上で、自己の発見を中心に、主人公が自ら孤独自体であると発見するに至る過程を明らかにした。その過程には二つの面があり、一つは語りの焦点と主人公の呼称の変化に関わる内面変化で、もう一つは桜のイメージに基づき現わされた主人公の内面と女との関係性である、と結論付けた。
 従来の研究では、「山賊」から「男」への呼称の変化は指摘されてきた。それに対して本発表は、「山賊」、「男」、「彼」の呼称の変化を、主人公の内面変化の過程と重ねて検討するというものであった。まず、それぞれの使用された語彙数を掲げ、各章ごとにどのような割合で使われているのかを表で示した。そして、テクストの進行に従って、「彼」が増えていくことに注目した。その点こそが従来の研究にはない画期的な点であり、研究が新たな段階に入ったことを感じさせてくれるものであった。
 その一方で、「男」と「彼」との使い分けが完全になされているのだろうかとも感じた。なぜなら、たとえば「男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです」のように、主人公の内面が語られる場面で「男」が使われているからである。たしかに傾向としては、使い分けがなされているとは言えるだろうが、完全な使い分けにはなっていないのではないか。共同討議の時に女と出会って以降、女との関係に応じて山賊が弱くなっていき呼称が変わっていくのであって、男と彼は交換可能なのではないか、という指摘も出された。この点については、もう少し詳細に検討する必要があるように思われた。
 その他、発表冒頭で「桜の森の満開の下」が説話形式であるとの指摘があった。説話形式と語りの関係ついては、時間の関係からかほとんど考察はなされなかった。この点について、両者がどのように関わるのかについて、もう少し聞いてみたいような気がした。この点が明らかにされることで、「桜の森の満開の下」の特徴がより浮き彫りとなるのではないだろうか。共同討議では語り手と登場人物の距離、語りの介入度の問題、呼称の変化について、「桜の森の満開の下」は傑作かなどについて、議論が交わされた。
中国ではまだ「桜の森の満開の下」の翻訳は出されていないらしい。もし「桜の森の満開の下」を中国語で翻訳するとしたら、同じように「山賊」、「男」、「彼」と使い分けられるのかという質問が出た。中国語に翻訳してもこれらの呼称は使い分けて翻訳されるとの回答があった。どのような形で翻訳され、中国で受容されていくことになるのか興味深く拝聴した。

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第34回研究集会


坂口安吾研究会 第34回研究集会(2019年3月9日 於:日本大学) 印象記

石川義正氏「坂口安吾とレイトモダン─万福寺をめぐる三つのテキストについて─」
高木 彬


 講演の「印象」を語ることは難しい。いつだってそうだが、今回の石川氏のものは特に。なぜならそれは、多方向に拡散し(続け)ているからだ。全体像を描けない。むしろ、そうしてある言説を全体性のもとに包括し、事後的な位置から評価すること、それ自体への批評が、石川氏の講演の基底的なモチーフとなっているようですらある。「印象記」というテクストが、ある発表内容の輪郭線を素描し、それに記録者がコメントを付すという(慣習的な)形式を備えているとすれば、この講演は、そうした形式からすり抜けていく。もちろんそれは、やはり石川氏の戦略なのだろう。しかし私は不用意にも、そこにまんまとはまりこんでしまった。講演が行われたのは二〇一九年三月九日。この文章を書いている時点ですでに一年半以上が過ぎている。時間は過ぎても講演と距離を保つことはできないまま、この「印象記」を書きあぐねている。したがって以下は、タイムリミットという超越的な審級によってもたらされた、二〇二〇年一一月時点の「切断面」でしかないことを、最初に断っておく。
 「女占師の前にて」(『文学界』一九三八・一)、『吹雪物語』(竹村書店、一九三八・七)、「日本文化私観」(『現代文学』一九四二・二)。石川氏は、これら坂口安吾の三つのテクストにおける建築表象について、以下のように語った──。安吾のテクストによれば、黄檗山・萬福寺の外観は、見る人に「均斉」(「均整」)を感じさせる。だが、その内部空間には中国由来の建築様式の特徴、すなわち根太・垂木・棟木といった構造部材の露出がある。「これら材木の組合せによつて生まれるところのありとあらゆる形々々のやや無限を思はせるところの明滅」(「女占師の前にて」)がある。外観の「均斉」は、内部にそうした「無限」を宿している。そこに緊張関係が生まれる。「これらの建築にこめられた異常なほど単一すぎる均斉の意志の裏には、この均斉を生みだすための凡そあらゆる不均斉がややともすれば矢庭に崩れて乱れだす危なさとなつて感じられます」(「女占師の前にて」)。「均斉」と、その「崩れ」、「乱れ」。相反する性質が並存している。この外面と内部の不一致(不透明性)は、ヘーゲルの人相術論を敷衍するカトリーヌ・マラブーのいう「意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の不一致」に近い。そのとき「指示対象(レフェラン)」は、透明性の幻想のもとに「想像的なものとして措定」される(『ヘーゲルの未来──可塑性・時間性・弁証法』西山雄二訳、未来社、二〇〇五)。つまり、内部のシニフィエは、読む主体の「想像」の投影としてある。岡ア乾二郎が「中国禅寺」(「黄檗禅の寺」)について述べたように、その内部空間は「鏡」、「(何でも映し出すことのできる)空」として機能する(『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房、二〇一八)。そこに「無限」を看取する安吾テクストの表象は、それゆえカントの「崇高(サブライム)」概念から理解できる。柄谷行人『坂口安吾論』(インスクリプト、二〇一七)によれば「崇高は、どう見ても不快でしかなく構想力の限界を超えた対象に対して、それを乗り越える主観の能動性がもたらす快」だからだ。ただし、「均斉」の「美」、すなわち柄谷の言う「対象に合目的なものを見いだすことから得られる快」を外面において見いだせる萬福寺において、「崇高」は、そうした「均斉」の「崩れ」として表象される。つまり安吾テクストでは、「美」から「崇高」への移行が語られているのだ。その過程が「ありとあらゆる形々々のやや無限」の「やや」という副詞に表れている。それは、外面と内部の一致(透明性・全体性)を前提とするモダニズムの形式の解体過程を表象したものでもあるだろう。注意したいのは、そうした表象が、いつだって合理的な形式の解体としてしかありえないということだ。形式に対してつねに時間的に「遅れ」る。そうした「遅れ(レイト)」を孕んだモダニティ、すなわち「レイトモダン」を、安吾の萬福寺表象は示している。それは、たとえば「穴つるし」をイエス・キリストの「殉教」と捉えて死を崇高化する柄谷論のような、超越論的な安全地帯から「崇高」を俯瞰するポストモダン言説に対して、むしろモダニズムに内在的な問題としてその破綻(と設立)を捉える点で批評性を有する。──石川氏の講演は、いちおうは以上のように整理できるだろうか。
 さて私はこの講演を、まずは石川氏の著書『錯乱の日本文学』(航思社、二〇一六)で展開された「レイトモダン」論のヴァリアントとして聴いた。本書は「レイトモダン」という概念を、フレドリック・ジェイムソン『近代という不思議──現在の存在論についての試論』(こぶし書房、二〇〇五)の議論から援用している。ジェイムソンは、C I A M(近代建築国際会議)の理論家ジークフリート・ギーディオンが言うようなモダニズムにおける都市計画のイデオロギーが、全体(都市)と部分(建築)との有機的連関を前提としていることを踏まえている。その上で、戦後普及した住宅建築の「nLDK」(個室×n個+リビング+ダイニング+キッチン)というプログラムに、そうした全体(都市)からの遊離を読みとった。それをジェイムソンは「後期(レイト)モダニズム」と呼んだのである。本書ではジェイムソンの議論を引き継ぎつつ、小島信夫の『抱擁家族』(一九六五)や『別れる理由』(一九八二)における「nLDK」を、「モダニズムの破綻した形象」(傍点原文)とみなしている。そこには、都市計画の一部として吉武泰水が設計した公営住宅の平面計画「五一C型」(=2DK)が、「n」の「反復」へと解体していく過程との並行関係があるという。都市計画という全体性のリミッターが外れ、「近代(モダニティ)の内破」が起こる。この「レイトモダン」について、本書『錯乱の日本文学』はレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房、一九九五)を援用しつつこう述べている。「『別れる理由』の呈示する「時空間」は、ニューヨークの超高層ビルに似た「フロアスペースの増殖体」である。そこでは各フロアの「独立した個々のプライバシーの集合体」になり、もはや「文化の『筋書=敷地(プロット)』をたてることは不可能になる」」。小島テクストにおいて「全体」というプロットは失効する。ばらばらに分解した「n」がどこまでも「増殖」するのみである。
 この「フロアスペースの増殖」について『錯乱のニューヨーク』は、都市計画における用途地域の観点から説明している。同一床面積のフロアを垂直に積層する超高層建築においては、用途地域という制限は無効化される。「メトロポリス内の単一の場所の無限個の処女敷地を生み出す」超高層建築の内部空間は、都市計画によって「予め決定された単一の用途ともはや合致することがない(…)。これからは、メトロポリスの敷地上では──少くとも理論上では──、予測不能でしかも不安定な組合せによる複数の活動の同時進行が当り前のこととして行なわれるようになる」。建築の内部空間は、こうして外部の都市空間のコントロールから外れる。それを、都市に向けられた建築の外面(ファサード)とその内部(空間)との切断として説明したのが、『錯乱の日本文学』にも引用された、以下のコールハースの「建築的ロボトミー」の一節である。
建築には内部と外部がある。/西洋建築では、この二つの間に精神的な関連性が成り立つのが望ましいという人間主義的な前提が存在する。つまり外部が、内部の活動を何らかの形で明らかにするのが望ましいというのである。「正直な」ファサードは、その背後の活動を語ってくれる。ところが数学的に言えば、三次元の事物の内容積は三乗的に増大するのに対し、それを包む表面の方は二乗的にしか増大しない。つまり建物の表面は、表現すべき内容の増大に比して、どんどん小さくならざるを得ない。/それ故に、マスが一定の臨界量を超えると、この関連性には限度を超えた圧力がかかる。この「限界の突破」が自己モニュメント性の徴候を作るのである。/容れものと内容の間の故意の切断の中に、ニューヨークの建設者たちは未曾有の自由の領域を見出す。彼らはこれを活用し形態化するにあたって、建築的なロボトミーを実行する──つまり、前頭葉と脳の残りの部分のつながりを外科的に切除し、感情と思考過程の分離によって何らかの精神の混乱を引き起こそうとするのである。/この建築的ロボトミーは外部と内部の建築を分離する。
 建築は、物理的に高層化するにしたがって、面積が二乗的に増大する外面(ファサード)と、容積が三乗的に増大する内部(空間)とが乖離する。それは、古典ギリシャからモダニズムまで西洋建築が有していた外部と内部の「精神的な関連性」(透明性)を失効させる。ニューヨークの超高層建築の建設者たちは、そうした外部と内部の「切断」を意図的に推し進めることで、都市から乖離した「自由の領域」としての内部空間を獲得しようとした。ここで語られているのは、そうした外科手術(ロボトミー)の論理である。
 今回の石川氏の講演においてもコールハースの「建築的ロボトミー」論との並行性が見いだせた。対象とされたのは萬福寺という巨大建築である。「均斉」なファサードと、そこから「切断」された内部空間の「ありとあらゆる形々々のやや無限」。その「無限」は、ニューヨークの高層建築における「フロアスペースの増殖」と同構造である。石川氏は安吾テクストの萬福寺表象に、「建築的ロボトミー」の手術痕を見ているのだろう。本講演は、小島テクストに見いだした「n」の「増殖」を、その「錯乱」のメカニズムから補足したものとして捉えることができる。
 だが以上の理路は、あくまでも個別的なコンテクストに講演内容を再配置する、超越論的な操作によってもたらされたものに過ぎない、とも言える。石川氏が柄谷行人の「崇高」論を批判し、モダニズムを「ポスト」(後)の位置から批評する行為に抗して、その「レイト」に踏みとどまろうとしたのは、まさにこうした超越論的な審級からの批評行為そのものを回避するためだったはずだ。とすれば、都合よく講演の輪郭線をなぞろうとする以上の印象記そのものが、まったく的外れだということになる。
 ただ少なくとも、約二時間におよぶ質疑応答での議論は、あるいは石川氏の講演の一部として見なせるのかもしれない。たとえば山根龍一氏(日本大学)が質問の際に述べていた一九四二年の「近代の超克」座談会の問題については、今回の講演と接続しうる点も多い。安吾の三つのテクストはいずれもこの座談会と同時代(うち「日本文化私観」は同年)に発表された。座談会は、近代(モダン)をいかに乗り越えるかを争点とし、そのメンバーには西谷啓治や鈴木成高ら、京都学派の面々が含まれていた。西田幾多郎や鈴木大拙に連なる彼らの思想的なバックボーンには禅仏教があり、安吾が取り上げた萬福寺の黄檗宗もまた禅宗である。「近代の超克」と「レイトモダン」はいかなる点で通底しうるのか。そう山根氏は問いかけた。石川氏は、「無の場所」としての寺院やアジア(中国)を媒介とした近代への批評という点に共通性を見いだすことは可能だ、と答えるにとどめた。だが、西洋(近代)でも日本(伝統への回帰)でもない圏域の召喚は、同時代言説において一定の広がりを持っていたようである。
 もっとも象徴的なものの一例は、「帝国議会議事堂」(現・国会議事堂)の建築様式を決定するまでの顛末だろう。竣工したのは安吾の「女占師の前にて」が発表される二年前の一九三六年一一月。帝国憲法発布の一八八九年二月から約五〇年後である(その間は木造の仮議事堂でしのいでいる)。なぜこれほど建設が遅れたのか。その主因は、「大日本帝国」を象徴する議事堂の建築様式をいかにすべきか、という点で決着がつかなかったからである。数度にわたって戦勝国となった経験から国家意識が昂揚しているため、もはや開花期のように素朴に西洋建築を模倣するわけにはいかない。だからと言って、いまさら日本古来の前近代的な建築様式に回帰するわけにもいかない。西洋近代の超克を内外に示すにふさわしい意匠とはなにか。「我国将来の建築様式を如何にすべきや」という課題はその五〇年間、建築界に投げかけられた解のない設問であり続けた(日本建築学会は同題の討論会を複数回開催している)。もちろん解がないのは、それを導く根拠が存在しないからである。だが建築は、物として建設されなければならない。最終的に実施設計者となったのは吉武東里。京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の武田五一の弟子である。建築史家の鈴木博之によれば、吉武は、武田の著した建築学のテキスト『建築装飾及意匠の理論並沿革』(誠文堂工学全集刊行会、一九三二)に掲載されたマウソレウム霊廟の図版に、議事堂の意匠設計のヒントを得たという。彼は、「西洋風のドームでも日本風すぎる瓦屋根でもない意匠を考えて、ハリカルナッソスのマウソロス王の墓(マウソレウム)のモチーフにたどり着いた」(『都市へ』中央公論新社、一九九九)。もちろん、「帝国議会議事堂」の建築様式のモデルが「ハリカルナッソス」(小アジアにあったカーリア地方の古代都市)である必然性などどこにもない。ただ、西洋でも日本でもない圏域でありさえすればよかったのだ。
 質問に立った林淑美氏(立教大学)が述べたように、安吾は東洋大学でインド哲学を専攻している。そこには興味深い関連が見いだせるだろう。だから、なぜ安吾は中国建築様式の「萬福寺」に注目したのか、という問いの立て方は、なぜ「帝国議会議事堂」のモデルがハリカルナッソスのマウソレウムなのか、と問うことに似てナンセンスである。繰り返すがそこに必然性はない。むしろその必然性のなさにこそ、「超克」や「レイト」の係争点があるのではないか。
 さて以上のように、石川氏の講演は多様な議論に開かれている。しかしそれをたんに "多面体" などとは評価できない。その外形を眺めるすべを少なくとも私は(おそらく誰も)持ち合わせていないからだ。明確な問題意識、過不足のない論証、端的な結論。そういう形式に慣れ過ぎた目からすれば、この形式(の解体)は異様だ。しかしできることは、どこまでも「増殖」していく石川氏の語りを、異様だと判断する手前で、ただ体験するのみである。そしてそれは、安吾テクストの萬福寺と同じく、あるいはコールハースの超高層建築と同じく、物理的に限界は持ちえても、原理的に全体性は持ちえない。この議論が終わりを迎えるとすれば、それはたんに時間と体力によって、である。磯崎新の「プロセス・プランニング」(『空間へ』美術出版社、一九七一)が建築のファサードを、物質的・時間的なプロセスの「切断面」へと変えたように。──もはや時間も体力も尽きた。

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第33回研究集会


第33回坂口安吾研究会(2018年9月22日 於・花園大学)印象記
高橋 啓太


 坂口安吾研究会の第33回研究集会では、高木彬氏による研究発表「坂口安吾の戦前・戦中期テクストにおける建築表象」と共同討議が行われた。
 高木氏はまず、「日本文化私観」(『現代文学』1942.2)で「必要」の美を語った安吾に新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)の思想を見出した磯崎新の評価(「建築における「日本的なもの」『批評空間』2000.4)に触れ、「日本文化私観」で言及されている小菅刑務所は表現主義の建築形態であり、即物主義ではないと指摘する。高木氏はここに作り手として〈建築−生産〉側にいる磯崎と、建築物を使う/見るという 〈文学−消費〉側にいる安吾という違いを見出し、安吾の戦前・戦中のテクストにおける建築表象を取り上げていった。
発表では、1930年代から1945年までをいくつかの時期に区分し多くのテクストを引用していたが、序盤の内容でかなりの時間を費やしてしまったため、発表後半のテクスト分析については割愛する部分もあった。以下、1930年代のテクストに関する発表内容を整理したい。
 1930年代前半については、「帆影」「竹藪の家」「群衆の人」「小さな部屋」の小説4編が紹介された。前者2編では部屋(個室)にいる人物が窓から外を眺めるという共通点が指摘され、単身者のアパートが舞台である後者2編については、関東大震災後に鉄筋コンクリート造の近代的な集合住宅(同潤会アパートなど)が建てられるようになったという建築史的なコンテクストへの言及があった。1930年代後半については、「女占師の前にて」において万福寺の建築様式に形式と内容の一致した美が見出されていたこと、「総理大臣が貰つた手紙の話」の中で「わが国の無敵駆逐艦とか戦艦」に「真実の美」を見出す叙述のあることが確認された。高木氏が指摘していた通り、1930年代前半と後半の間で安吾の建築表象に断絶が見出せることは間違いなく、「日本文化私観」は断絶後のテクストの延長線上に位置づけられるであろう。
 ただ、高木氏の研究がまだ初期段階であったので仕方がないのかもしれないが、各テクストの建築表象を分析してどのようにまとめていくのかという見通しは示されなかった。また、発表の流れとして、建築における20世紀芸術運動の影響や建築形態の特徴など建築史的なコンテクストを整理してからテクスト分析に入った方がよかったのではないだろうか。例えば、共同討議の中で、参加者からの質問に答える形で「近代主義(モダニズム)建築とは、外から見ても内部の構造がわかるような建築のことであり、設計者の内面が表現した建築ではない」という意味の説明があったと記憶しているが、こういった説明は最初に行った方が発表内容を理解しやすかったと思う。
 共同討議では、福岡弘彬氏が作成したレジュメをもとに議論が行われた。福岡氏はマテイ・カリネクス『モダンの五つの顔』(せりか書房、1995)の議論を踏まえ、安吾が批判するブルーノ・タウトの「日本文化私観」は日本にまで及んできた文化面でのグローバリズム(西洋文化の模倣・模造)を批判していたと指摘する。さらに、安吾の「日本文化私観」では模倣(キッチュ)からオリジナルなものへの到達が見据えられていたとして、安吾とタウトの議論にはある程度重なるところがあるのではないかという見解も述べていた。この後、参加者の間からはドライアイスの工場があった場所や小菅刑務所を安吾が即物主義的な建築として理解した理由などについて発言が相次いだ。
 「総理大臣から貰つた手紙の話」に関しても議論が交わされた。福岡氏が「即ち神奈川県に一足這入れば、満員の電車といへども人々は整然と立並び、[…]ひとたび彼等の眼付を見れば四方八方油断も隙もないことが分る。静寂である。無心の如くである。けれども現に彼等を乗せて走りつつある電車よりも複雑なる機構に充ち且又遥かに速力的な生命が充満してゐる」という箇所にファシズムへの接近を指摘したのをはじめ、作中の「満員電車」は軍需工場への通勤電車であり、軍事機密保持のために窓が目張りされていたはずであるという指摘もあった。
 発表と共同討議を通して、多様な論点が浮上した。個人的には〈建築―生産〉と〈文学―消費〉とのズレをもっと愚直に確認していくことも必要ではないかと考えるが、安吾の建築表象に注目することの面白さを実感した研究会であった。

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第32回研究集会


第32回研究集会
浅子 逸男
 今回の研究集会は原卓史氏の研究発表のみである。私の個人的な考えでは本来の勉強会のかたちをとる理想的な研究会になると予測していた。そしてその期待どおり、いやそれ以上の会であった。
 さて、原さんの報告は「紫大納言」についてである。この作品についてはすでに典拠が関井光男によって明らかにされ、また初出と『炉辺夜話集』収録時に書き換えられた本文の異同を考察することは様々な論者によって行われてきた。
 まず典拠についてだが、関井氏により石川雅望の「近江縣物語」と北条団水の「一夜舟」が取り込まれていることはほぼ安吾研究の常識になっているが、そのほかに『宝物集』、『竹取物語』、謡曲「羽衣」、『松浦宮物語』、「スキュデリ」のエピソードが断片として散りばめられていることを原さんは指摘した。
 異同と典拠の指摘は細かなところまで目を行き届かせていたため、これ以上はできないのではないかという思いを持った。とりわけ配布された異同の一覧表は瞠目に値する。
 典拠のうちのひとつ、「スキュデリ」の著者E・T・A、ホフマンについて原さんは日影丈吉の文章を紹介したのだが、これは「紫大納言」からやや離れてしまうため抑えぎみだったようだ。紹介されているレジュメ資料からもわかるとおり、アテネ・フランセで日影丈吉は安吾と一緒だった。ここには葛巻義敏、菱山修三、関義、長島萃、江口清といった安吾の文章に親しむ人ならしばしば目にする人たちがいる。このメンバーが同人雑誌『言葉』、そして『青い馬』に結集しているのである。
 じつはこう言うのも、ホフマンということで、原さんはドイツ・ロマン派という方向にいったのだが、アテネのメンバーであるところからフランス語訳を読んでいた可能性が高い。事実、日影丈吉の「ホフマン・思い出すことなど」では、彼がとりよせた本はフランス語版で「訳者は本職の物書きではなく、たしか南仏の入で本業はお医者さん。訳文はネルヴァルほど上等ではないが……」と記しているので、安吾がどういうかたちで読んだかの検証までしてくれるとより強い説得力を持ったと思う。
 シンポジウムに移ったところでの疑問を記す。
 「紫大納言」のなかで大納言が月の使者を襲う描写について、「これほど暴力的だとは気づかなかった」という意味の発言があり、そのとたんに私には理解できない方向に発言が向かっていったように記憶するのだが、「暴力的」だから何なのだ。文学で暴力を描いてはいけないのか。そういうことをする大納言、いや、してしまった大納言なのではないだろうか。あの場面で「暴力的」だからおかしい、とか作品として下劣であるというのなら評価しなければいいだけの話である。さらに「紫人納言」を「慰安婦」と重ねた論文もあるという発言まで出たが、その論文ははたして妥当なものだっただろうか。「慰安婦」問題はいつから明示されたのだろうか。昭和十四年段階で書かれた作品に反映するような言説があったのだろうか。今後の検証、あるいは論証する姿勢に期待したいところである。

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第31回研究集会


第31回研究集会 2017年9月9日(日)於立教大学 研究発表印象記
桑原 丈和
 前半の研究発表は藤田絵里香「坂口安吾の同時代における受容―エグジスタンシアリズムの様相をふまえて―」。早川芳枝「坂口安吾の天皇制批判と古代東アジア史論―「カラクリ」に対抗する「カラクリ」―」の二つであったが、どちらの発表も様々な資料を駆使し、かつ整理された内容ではあったものの、なるほどそう来るか、と膝を叩くような指摘がなかったのは残念だった。
 藤田絵里香氏の発表は、戦後初頭、1947年頃の坂口安吾の評価について、「水いらず」が翻訳・紹介されたばかりのサルトルとの比較から論じたものを紹介し、それに対する安吾自身の反論を提示するところから始まり、そこに生じていた誤解・ずれをふまえた上で、それでも安吾とサルトルの間には「類縁関係」が見出せるのではないか、と指摘するものであった。発表の主旨自体はいたくシンプルなもので、わかりにくにところは無かったのだが、長い射程を持った、まだ始まったばかりの研究の、ごく初期の報告といった印象であり、研究発表としては物足りなさが残った。
 発表の冒頭では、「エグジスタンシアリズム」の訳語として日本で定着している「実存主義」という言葉は、「日本で解釈された、現象としてのエグジスタンシアリズム」なのであり、あえてそれは使わず「思想としてのエグジスタンシアリズムの総体」を示すために「エグジスタンシアリズム」という言葉を用いる、という説明があった。しかし、その「総体」とはどういうものなのかが示されないままだったのが、発表が情報の整理にとどまってしまった理由があるように思う。発表後の質疑応答でも、なぜ「エグジスタンシアリズム」の、サルトルのテキストについての読みこみがないのか、という疑問が提示されていた。それ自体が非常に大きなテーマであり、また限られた発表時間では扱いきれず、言及できないということもあったとは思うが、まず「思想としてのエグジスタンシアリズムの総体」についての自身の明確な認識を組み上げることが必要だと感じた。もちろん、「思想としての」坂口安吾の「総体」についても同様の作業が必要であり、その上ではじめて一歳違いの二人の文学者の「類縁関係」や同時代性が見えてくるのではないだろうか。
 一方、早川芳枝氏の発表は、1940年代後半の「天皇制への批判的言及」のある作品から、1950年代の「特異な古代史論が現れる作品」を対象としていた。坂口安吾による天皇制・日本の「歴史のカラクリ」についての指摘を整理した上で、その「カラクリに対抗する安吾なりのカラクリ」として、「既存の学問的な文脈にあえて載らない」歴史に対するスタンスを独特なものとして指摘した。「「カラクリ」に対抗する「カラクリ」」という副題の所以であるが、質疑応答でも疑問が出ていたように、残念ながらこの言い回しはあまり有効では無かったように感じた。あえて凝らずに「方法」や「スタンス」といった普通の言い方でも良かったのではないか。
 自らの編み出した新たな「フィクション」をぶつけて歴史が作り出してきた「フィクション」を無効化する安吾の方法という結論は、先行研究での指摘もふまえたもので、納得できるものではあった。ただ、研究としての精度を更に上げるためには以下のような点が必要では無いだろうか。まず、安吾の歴史のとらえ方は、本当に彼自身が主張するような「学問」の成果を活用しない、「素人タンテイのナマクラ手口」だったのかを検証することである。更に、そうだったとして「既存の学問的文脈にあえて乗らない」歴史叙述というのがどの程度安吾に独特なものだったのか、という点についても検討する必要があるだろう。安吾以前に、たとえば徳富蘇峰や山路愛山たち以降の文学者たちが書いていた歴史書には「学問的文脈」に乗らない同じような特質は無かったのか、本当にそれは安吾一人が始めたものなのか。それを検証することで坂口安吾一人にとどまらない、近代における歴史研究と文学の関係を論じる視野を獲得できるだろう。


福嶋亮大「世代・物語・風景――文学史における安吾」
塚本 飛鳥
 第三一回研究集会の最後は、福嶋亮大氏によるご講演「世代・物語・風景――文学史における安吾」であった。氏はまず安吾の世代がモダニズムと日本浪漫派の間に立つことを確認された。作家性ではなく技術によって作品を作りあげた少し上の世代と、超越的な物を賛頌して日本を浪漫的に立ち上げようとした少し下の世代。この二つの世代の間で、都市の華やかさよりも辺鄙な地方を描き、超越的なものに諧謔を施したのが安吾の世代であった。
 「日本文化私観」に見られる機能性の重視は、合理性を日本文化の特徴とした同時代のモダニズムと近い感覚を有しているという。一方で、安吾は「日本文化私観」の同時期に「島原の乱」の執筆を試みている。徳川の平和と新井白石の合理性、その出発点には島原の乱という暴力性があった。もしこの作品が未完となっていなければ、「日本文化私観」にみられる物質主義や合理主義を自己批判するものになりえたかもしれないと氏は指摘された。
 安吾には浪漫主義的志向も見られるという。安吾の描く女性は「ふるさとに寄する讃歌」に見られるように、自分自身の中に生きる自分の分身であることが多い。そして時に「桜の森の満開の下」のように両者の関係性や境目は曖昧となり、「夜長姫と耳男」のように自己が一体化し、互いを抹殺することすらある。安吾は即物主義的作家である一方で、イマジネイティブな世界を重要視していた。戦争を美学化しようとした日本浪漫派とは異なるが、安吾は分身という浪漫主義的志向を有していた。そしてそれは、太宰が自分に似た人達を作品に散りばめたことを考えると、同時代的な感覚だったと言えると指摘された。
 会場からは、前半に行われた研究発表と関わらせながら、天皇制の問題や、安吾の母の問題、禅、近代的リアリズムとは外れた作品の書き方など、幅広い質問があがった。ご講演の中で、氏は五五年体制とその後の高度経済成長は、安吾の言葉を現実化したとも言えるかもしれないと、安吾の死後の時代についても言及されていたのだが、この安吾と五五年以降の近似については、質疑応答の時間だけでなく、研究会終了後も一部参加者の間で熱く意見が交わされ、大変印象的であった。氏も指摘されていた通り、安吾は同時代的な文脈を細かく見ることが重要な作家であり、一つの側面から考えるだけでは取りこぼす要素が多いと言える。多角的に考えなければ本質を捉えることができない安吾の面白さと難しさを改めて感じた。
 なお、このご講演は『坂口安吾研究』第四号に掲載される予定である。

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第30回研究集会


印象記
佐藤 貴之
 第30回研究集会は、2名の研究発表ののち、会場の参加者を含めた共同討議へと進む形で行われた。
 大西洋平氏「坂口安吾「木枯の酒倉から」試論――〈笑ひ〉に着目して――」は、作品の構造・表現・人物形象に狂言との類縁性を指摘し、その上で作中の〈笑ひ〉の機能について論じるものであった。理性信奉者である「俺」は自らの身体性を抑圧するが、その欺瞞的な言動は「僕」・「行者」の〈笑ひ〉を梃子に相対化される、という明快な図式をもとに、作品細部にまで分け入った解釈がなされた。尻を高く掲げた「行者」の奇怪な坐法とは、身体の空走に振り回される「俺」の滑稽な苦行を模倣した姿であり、その反照を通じて自己相対化の契機もはらまれる。氏はカントを援用しつつ、後年の「ピエロ伝道者」・「FARCEに就て」に通底する〈笑ひ〉の萌芽をとらえた。古典受容や「笑い」といった安吾作品全般にも通じる問題を扱った意欲的な発表であり、質疑応答では、狂言を焦点とする必然性や、資料との比較の妥当性、同時代文学との距離などに関して議論が交わされた。作中の表象としての笑いと、読者の笑いを惹起する言語表現とでは扱う次元が異なるのではないか、といった根本的な問いも提出され、作者―作品―読者に跨がる「笑い」という多義的な用語の難しさを改めて考えさせられた。氏もその困難は承知した上で、あえて複数の方向に手を伸ばそうと試みたのだと思われる。今後、山伏狂言の滑稽さとの関係も含めて、文学の笑いという問題領域にさらに踏み込む展開が期待される。なお「身体」を一つの鍵語とした氏の発表であったが、個人的には、〈笑ひ〉が対象を嘲弄する行為であると同時に、それ自体も「身体」的反応である点について、もう少しうかがってみたかった。
 大原祐治氏「所有と欲望をめぐって――「桜の森の満開の下」考――」は、ともすれば時代性と切り離された小説と理解されてきた一篇に対して、同時期の他作品との主題的な連続性を見出し、かつ敗戦直後の時代状況への批評性を析出しようとするものであった。「女」を巡って「所有」する/される感覚から時間性を感得した「山賊」は、やがて都における時間の循環に退屈し、満開の桜に臨むことで「キリがない」反復の切断を試みる。だが桜の下で、「山賊」は「女」を鬼と錯誤し、殺害する悲劇的結末に至った。氏はここに、終戦という切断を無批判に享受する人々の寓意、そして彼らに到来しうる悲劇の寓意的予告を読み取ろうとした。その「所有」への問題意識は、民法改正による新しい家庭・夫婦倫理の兆候や、農地改革による土地所有の再画定問題といった、1946年前後の様々な話題を遠景に捉えたものと氏は論じた。大胆で示唆的な主張であっただけに、会場からは、社会事象との具体的な対応や、抽象的な小説形式である必然性を問う声が挙がった。夫婦間の「所有」など、安吾はミクロかつドメスティックな問題系から考えようとしていた、という見通しには肯けるものの、やはり「桜の森の満開の下」ではない他作品、あるいは他作家からも、同様の問題意識は看取できるのではないか。巧みな読解に啓発された反面、作品独自の趣意が批評性につながる論理については聞き足りない思いだった。むろん本発表の比重はまずもって問題提起にあり、煩瑣な説明を省いた面も多かったと思われる。今後、どのような方向にも展開しうる興味深い論点と感じられた。
 共同討議では、各発表の時間内に収まらなかった質問が矢継ぎ早に発せられた。初期安吾における新感覚派的・モダニズム的身体表現や、近代全体を貫く「私的所有」の概念、マルキスト/アナキスト的な意識の差異、男女の「所有」とハウスキーパー問題など、多岐にわたる議論は有意義なものであった。
 今回並んで発表された両名は、様々な点で対照的に感じられた。実直な資料調査から作品へと切り込む大西氏、作品の精緻な解釈から外部の批評性へと向かおうとする大原氏。あるいは、一気呵成に自らの論理展開を投げかける大西氏と、問題意識を縷説しつつ次第に聴衆を自説へ引きこむ大原氏。同じ安吾を扱いながら互いに異なる研究スタイルの交差は、会場全体に心地よい刺激を与えていたものと思う。
 ところで、今回は関西での開催ながら、安吾研究者以外にも多くの方々が参加されていたことも印象的であった。専門家の発表のみならず、参加者の多角的な議論を拝聴できたことは、私にとって何より収穫である。研究者の紐帯が分断されがちな近年、世代・地域・研究方法・対象を跨いだ交流の場の重要性を噛みしめ、意を強くした思いであった。


(印象記)第30回研究集会
水沼 正剛
 I. はじめに
 第三十回集会では、小説処女作「木枯の酒倉にて」と戦後直後発表の代表作「桜の森の満開の下」、両寓話的幻想譚について報告がなされた。二作品とも後述のような出自からの研究会参加者である筆者にとっては重い取組となったが、知識や理解力の不足には目を瞑り、誤読誤解を恐れず蛮勇をもって印象記を記述してみたので、読者各位にはその点のご寛恕をお願いしたい。

 II.「木枯の酒倉から試論〈笑ひ〉に着目して」
 大西洋平氏「木枯の酒倉から私論〈笑ひ〉に着目して」では、まず本作品と狂言特に山伏狂言との類縁性を多面的かつ精緻に検証する。その上で本作品を通底する主題を〈笑ひ〉とし、〈笑ひ〉は「理性」と「想像力」さらには「身体(の瞞着性)」間の関係や葛藤の中から生まれるものとされた。本作品は四十数年前初読したが全く歯が立たずに頁を繰っただけ、研究会前の再読でも大きな変化はなく、会での大西氏報告の内容の豊富さにあっけにとられ圧倒されていたのが実態である。
 さて狂言との類縁性だが、筆者自身の狂言観劇歴は人形浄瑠璃等と比べても限られたものに過ぎず、このため狂言の側からのアプローチにより大西氏所論の是非を問える立場にはない。ただ印象として「物語構造」上の類似として挙げられた序破急や道行進行、「細部表現、語りの組成」で挙げられたオノマトペ等は、狂言のみに固有なものでなく、前者は多くの演劇構造に、後者も昭和モダニズム文学で屡々用いられたツールであり、本作品と狂言山伏狂言の類縁性を決定づけるものとは思えなかった。なおオノマトペのうち特に興味深いのが、「俺」の「う、ぶるぶるよ」である。これは、「僕」との会話で「俺」が武蔵野居住を拒否する際に二度、次いで冬の酒倉の前で「俺」がひとりごちする際、酒、酒樽、冬と並べて痛罵する時に発せられている。音韻上の印象もあり擬音や擬声の枠を超えた理不尽な言霊めいたものを感じさせる。一方「人物形象」の類縁性として示された「俺」と「行者」の人物造形や論戦での語り口等は、具体的な狂言台本テキストのシテ山伏の台詞と比べてみると、極めて見事な類縁性を感じさせる。本作品への違和として感じられたものの一つに両登場人物のリアリティ欠如や論戦でのやたら大仰な台詞、芝居かがった構成(勿論それらは意識的になされたものだが)があったが、今回その典拠を狂言のシテ山伏に求められることを知り、関係イメージがそれなりに鮮明になった気がする。「僕」も含めた本作品の三登場人物のうち、「行者」は「俺」のドッペルゲンガー、いや全てが「僕」の幻想作り話ではないかとの推測は誰もが持つだろうが、ここではその点を差し置き、三者独立人物と考えた場合でも、シテ山伏の習性や話法が具体的に「俺」と「行者」の間でどのように分割共有されたのか、また後に自伝的小説群に提示された安吾自身の自画像が三登場人物にどのように反映されたのか等新たな興味を喚起させる問題提起であった。
 次に本作品における「インド」表象の問題を挙げたい。本作品では「行者」は「日本にたった一人の喩伽行者」と称され、そのヨーガはヒンドゥー哲学上本流とされる鉢顛闍梨でなく、密教との関係の深いハタヨーガと分析され、描かれた奇妙な修行のイメージをそれなりに明瞭にすることに繋がったが、それでもなお本作品全体に現れるインド表象全体の持つ意味合いや山伏狂言との類縁性等がまだ不分明のままである。安吾は僧侶を目指し東洋大でインド哲学を収めており、インド関係知識やサンスクリット原書購読経験に基づくインド的感性を持ち、同国人教師等にもそれなりの知己を得ていたことと思う。だがインド表象はその後具体的作品にはあまり表れず、なぜ小説処女作の本作品にのみ明瞭にイメージされることになったのかは極めて興味深い。この脈絡では例えば大西氏が伎楽舞楽の系譜に求められた「婆羅門の銅色の娘」の原型を端的に「ラーマーヤナ」シータ姫に擬するといったことも考えられる。討議の中で木村泰賢「インド哲学」等の読書歴などへの言及がされたが、安吾自身のインド古典文学等への見識についても是非確認したいところである。時代状況を考えると、インド神秘主義やインド政治の観点も見逃せない。わが国では仏教伝来以来インド神秘主義受容にはそれなりに長い歴史を持つが、この時期ブラヴァッキー夫人の神智学協会等新たな会派もわが国にも普及し始め、社会不安の高まる中で、日本仏教神秘主義ともども注目を集めていたと解される。他方政治の面では「中村屋のボース(ラース・ビハリー・ボース)」やチャンドラ・ポースらの存在を通して、当時の日本社会では今日と大きく異なるインド政治への関心とコミットがあり、大川周明や頭山満等アジア主義者、右翼運動家もこれに連動した。安吾の文筆活動がその後小説の枠を大きく超え、社会評論や社会思想的分野へと広がり、神道-天皇制や大本会等新興宗教、さらには平和主義論でのガンディーへの関心等を考える際この観点は見逃せず、是非安吾自身やのインド認識や作品への反映等についての先学からのご示唆に期待するところである。
 大西報告の中心課題である〈笑ひ〉の構造問題に移る。この問題への大西氏のアプローチの幅は極めて広く、丁寧に作品本文引用と理論解析ツールを照合させつつ議論を進められたが、筆者の理解の及び切れなかった面も多く、問題を考える補助線として本作品の〈笑ひ〉を再解剖してみることとした。共同討議で問題提起されたように、本作品の〈笑ひ〉は構造的に重層化されている。まず作中に「笑う」、「笑い」等直接の言葉をもって表現されているものがある(「直接の笑ひ」)。次に作中の描写や会話、独語等の表現によって、読者に笑いを喚起させるものがある(「間接の笑ひ」)。さらに作品全体構造を規定している笑い(「構造としての笑ひ」)の三階層が読み取れる。「直接の笑ひ」は、「(俺が)---笑うべく物語を語ってきかせた---」との武蔵野の「僕」の場面を皮切りに、論戦の場ので「ニタニタと」笑う「行者」や対抗して「ニヤニヤ」、「ゲタゲタ」と笑う「俺」の場面が繰り返しえかがかれる。「間接の笑ひ」は、登場人物たちの容貌、行動、姿態の異様さや、大袈裟で極端な台詞、噛み合わない会話等を表現することで、読者の笑いを喚起しようとするものである。「行者」の容貌体型、四回に亘って行われる論戦対決内容全体はもとより、「俺」が酒倉のぺんぺん草と格闘する場面や、「--行く手はいつも茨だが---茨は茨ならずして---虹となり---虹と見ゆれば茨は本来茨だから---また虹なんじゃ---うう、めんどうくさい」という同語反復や循環で構成される「俺」の不思議に詩的な独語、第四回論戦のあげく「俺」がパゴタ゛と見立てたヨーガ修行中の「行者」の白い尻と葛藤する幻影場面などがこれに含まれるだろう。「構造としての笑ひ」は、物語全体を支配する作者の構図とでもいうべきもので、大西氏の指摘されるよう本作品から「FARCEについて」に架橋されていく安吾の創作意図としての「笑ひ」である。「構造としての笑ひ」はおそらく初期安吾の至高原理とでもいうべきものだろうが、そもそも徹底した出鱈目や不合理により成立するものなので、論理的分析には限界がある。筆者自身は多少知見を有する映画の世界で、ファルスの構造を取り込みつつ同時期以降にハリウッド製作された「赤ちゃん教育」等スクリューボールコメディ、スラプスティックコメディーに関する先達の分析成果等も借りながら、少しでも認識の精度を上げていくことが課題と考えている。大西氏は三層すべての断面で、「理性」と「想像力」、そして「身体(の瞞着性)」間の関係や確執が〈笑ひ〉を構造化し、飲酒、修行、寒暖感覚といった具体的身体現象が引き起こす様々な意識や幻想が個別の〈笑ひ〉を引き起こしていることを、丁寧に検証されたのだと理解しているが、これ以上の詳細を正しく追及する理解力を、残念ながら今の筆者は持ち合わせていない。
 次いで報告結語部で提示されたカント問題に触れたい。討議では「---鉢?闍梨の学説は不幸にしてイマヌエル・カント氏に先だって生まれ---」引用も含め、本作品でのカントの中心が「純粋理性批判」にあるのか、それとも大西氏が〈笑ひ〉の鍵として引用された「判断力批判」にあるのかといった興味深い指摘もなされた。少なくとも本作品中の「理性」、「想像力」はカント「純粋理性批判」から輸入された概念(「想像力」よりも邦訳では「構想力」の方がメジャーなので、安吾は仏語訳で読んだ?)と解されるが、引用部分は「俺」が理性主義や人間の悟性能力の限界等カント主張の正しさを「行者」に強弁する場面で、それがあっさり酒の力で「行者」の幻術により突き崩される過程の前触れでもある。とすればここでの安吾の本旨は、カントの理性主義や道徳主義、さらにはそれに追随して当時力を強めつつあった京都学派等の思想の 観念性が、飲酒、悪酔、卑猥な修行、幻覚といった不埒で不道徳な行為より無意味化されてしまうことを示すとともに、思想の観念性そのものを揶揄する趣旨もあったのではないだろうか。とすれば大西氏がまとめられような形で、カント「判断力批判」のギミックに本作品の〈笑ひ〉の構造全体の鍵を見出すことは、やや慎重さを擁するのかもしれない。なお蛇足だがベルグソンがカントを継承して、身体(物質)と意識(精神)の関係の中から笑いの本質を分析する作業を進め、著作「笑い」にまとめている。「ああ太陽よ、おお生命よ」とランボーを滑稽化した如き朗誦を「俺」に委ねた如く仏文学への薫陶の強い安吾が、「笑い」を読んでいた可能性はかなり高いと思う。それがカント著書を超え本作品の〈笑ひ〉の構造にどのように影響を与えたのかは今後の更なる検討課題だろう。
 最後に本作品発表の一九三一年という時代的背景、二十五歳、大卒無職者という安吾自身の個人的背景を考えてみたい。本作品執筆の一九三〇年は世界大恐慌が日本経済を襲い不況が社会全体を覆う中、金解禁政策や統帥権干犯問題への国民の不満が先鋭化した年であり、十一月には浜口雄幸首相がテロに襲われる。本作品発表の翌一九三一年五月には五・一五事件、夏には満州事変が発生する。日本がいよいよ「不安の時代から暗黒の時代へと移行する」まっ只中に本作品は書かれたと言って良い。一方この時期安吾は僧侶志望を断念し文学に転身、文学一途の生活に入っていた。文学をもって世界を支配したい願望があり、それゆえ超絶的な生活態度をとっていたので、社会世相から単純な影響を受けたような作品を創造する意欲はなかっただろうが、小説のような精神的表現活動に、不安の時代が全く影響を及ぼさないことも考え難い。またこの時期不安の時代を形象化するような新たな表現方法や技術が、モダニズム文学やプロレタリア文学に導入される。こうした動向の中、時代精神を先取する前衛の一人としての溢々たる野心を持つ一方、裏腹にある自らの才能への恒常的な不安による落伍者意識も顕示していた安吾ゆえ、意識的に最も異端的な表現にのめり込んで行った面もないではないだろう。さらに当時安吾が帰属していた文学同人雑誌世界は閉鎖的で小世界ゆえ隠微で過当な競争が支配しており、仲間たちへの過剰な衒気から、より奇矯なもの、より奇抜なものを発表して仲間を圧倒したいというような思いもあったのではないだろうか。本作品の〈笑ひ〉が、他の何よりも安吾自身のファルスを目指す表現意欲に原点を持つことは確かだが、これに加えて以上のような様々な時代的背景、個人的背景が輻輳し、〈笑ひ〉という異端の構造選択と、「木枯の酒倉にて」という異形の処女作が発表されることになったのではないだろうか。

 III.「所有と欲望をめぐって-桜の森の満開の下考」
 大原祐治氏「所有と欲望をめぐってー桜の森の満開の下考」では、まず書誌的確認を通じて、独立した寓話的作品と位置づけられやすい本作品執筆動機の背景に当時の憲法改正論議やGHQ改革の一環として進められていた民法改正-家族制度見直しと農地改革-土地制度改正があったのを見る。安吾自身、戦中の不合理な旧戦争翼賛体制見直しには疑問がなかっただろうが、当時声高に叫ばれた理想は脆いもので、容易に現実の人間活動の中で裏切られていくことを予見していた。本作品はそうした点への警鐘の観点も含め書かれたもので、同時期発表された「続堕落論」等とも通底するものがあるとされた。戦後の理想とはそれまで強く抑圧されていた「自由」の獲得であったが、自由はその根幹をなす「欲望」と「所有」に支えられている。一方「欲望の解放」も「所有の自由」も、いずれも卑小な人間の精神活動であり、綺麗ごとだけで済むことはない。撞着を招きつつ、時には人を地獄に落とし込むことすらあるということだろう。さらに大原氏は作品進行に沿って、報告のキーワード「所有」、「欲望」、さらには「時間」を手掛かりに、順次引用と解説を並行する形で報告を進められたので、ここでは同旨に基づき本作品の内容を振り返ってみたい。
 美しい女(八人目の女房)と出会う前の男(山賊)には「所有」の問題はなく、「欲望」も自然なものに尽きた。山での暮らしは都人からの掠奪山賊行為によって支えられていたが、全て生活上の必要によるものであり、ともに暮らす七人の古女房たちも、男自らの意思によるというよりも自然過程の中で手に入り、所有することとなったものだった。一方自然的な日常を続けていた男にとって唯一絶対的超越的とでもいうべき例外が、「恐ろしく」、「気を変にさせ」、良く分からぬ「おかしい」ものである満開の桜の森だった。ただ桜の満開は一年に一度だけ訪れるもので、開花と無縁の一年間はやり過ごすこともできるので、男は桜の森の恐ろしさや分からなさを深く考えることを避け続け、毎年先延ばしにしていた。このあたりの叙述では、「美しい女と会う前の男の意思なき所有」や「疑問に思う桜の満開を前にしながら、毎年やり過ごすことのできる時間感覚」といった点に興味を覚える。
 美しい女との出会いが全てを変える。男にとってこの女の美しさのありかは「どうも変だ、いつもと勝手が違う」満開の桜の森同様よく分からないもので、それゆえ超越的絶対的なものになったのだろう。男は女の亭主を殺し、女を手に入れ、女との暮らしによる「未来のたのしみにとけるような幸福」を感じる。女に自らの魅力を誇示するため、「これだけの山という山が皆俺のものなんだぜ」と言うが女は取り合わない。大原氏はここで「男が誇示する山の所有が本当の男の所有物と言えるのか」という問題提起をされている。男が一旦女を所有すると、女は様々な欲望を男にぶつける。初めは古女房たちを殺すこと。  男は命に従い女が自らの女中にすると言った「びっこの女」を除き全て殺す。次いで女は自分の着物、家具、櫛、簪等の美しい持ち物を自らの手で完成させるため、男に材料や断片集めと組立作業の下請を命ずる。男は女の制作物の最終姿も目的も知らぬまま、次々と美しいものをつくる女の魔術の助手として従い続ける。既にこの段階で、一旦女を所有したはずの男と女の関係は逆転しており、「主人」だった男が「奴隷」になり、「奴隷」だった女が「主人」に役割を変えている。ヘーゲル「精神現象学」自己意識の主人と奴隷の関係性そのものである。このように役割を見直しながらも、男と女の相互関係は深まっていく。このあたりの叙述では、女と桜の森の満開の下の類似を男が感ずる場面や、女が古女房たち殺しを命ずる残酷さ、そして次々と美しいものをつくりあげていく魔術の描写に圧倒される。
 「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ」という女の要望に従い男も都へ行くことを決める。この時男は都でも女とのこれまで通りの暮らしが続くと考えるが、唯一の心残りとして桜の森がある。男は都に移る前に満開の桜の木の下を訪れ、凄まじい虚空の中で、「泣き、祈り、もがき、逃げ去ろう」とする苦しい経験をする。都に移った女は、首遊びを始める。男は女の欲望に応じて、人の首を狩り家に並べ、女はそれらをいじり回し芝居をさせる。首遊びは時が立つにつれより激しく残酷にエスカレートしていく。男の都での生活は山でのそれとは違ってしまい、昼は山だしの下層階級としていじめられ、夜は首狩りに赴く二重生活となる。女は自分の「欲望」の形を次々と変えるが、男の手なしには達成できない。一方男は、予想していなかった山の暮らしと都の暮らしの違いに突き当り、女との生活だけでは生きていけない新たな生を知ってしまう。このあたり叙述では、女の首遊びの描写が極めて細密に描かれているためより凄惨で残酷さを増していること、また山ではあれだけ強かった男が、都では都人たちに愚弄され続けながら、甘受し耐えていること等が興味深い。
 男は「退屈」を覚える。男は都での他人のうるささに対する自らの感情を退屈と呼んだ。女もびっこの女も退屈は感じない。彼らは都の人びとの社会にそれなりに対応できているからである。男の退屈は女の欲望にキリがないことにもある。大原氏は男の退屈の原因を都での生活への不如意と目的なき労働の繰り返しへの飽きに見られたが、言い換えれば退屈は「未来の喪失」と「孤独の認識」により訪れるのではないだろうか。美しい女と出会う前の男には、未来がなく時間もなかったので退屈はありえなかった。男が美しい女を所有したのは「未来のたのしみ」のため、その後山でも都でも、男は女の欲望を満たす行動を続けたが、それもまた「未来のたのしみ」のためだったろう。だが女の欲望は増殖するばかりですっかり先が見えなくなる。男の期待していた未来はどんどん遠ざかる。未来が見える中での日常なら未来を夢見ることにより退屈を排除できるが、未来が視界から消えうせてしまったように思えた時、現在だけが露出して「退屈」が訪れる。一方「孤独」は「社会=他者関係に巻き込まれ、その中で意識や所有関係等が変わっていく」ことで生ずる。人は社会に投げ入れられた時、初めて他者が自分を見る目に出会い、その中で強く自分を意識する。自分が他者に受け入れられない時、自分への意識は益々強くなる。女と出会う前の男には他者がいなかったので、社会はなかった。女と出会い初めて女を「所有」しようとしたが、女以外との他者関係はなかったので、「社会」はなかった。従ってここでもなお「孤独」の入り込む余地はない。都に出たことで他者との関係が始まる。他者との間での所有を巡る争い等も始まり様々なすれ違いが起こる。他者との関係が強まるほど、自分を意識して「孤独」が始まる。一旦「孤独」が始まってしまうとさらに強く自分を意識する度合いが激しくなって、そちらばかりに関心が移り、日常や日常での活動には意味が見いだせなくなり「退屈」を覚える。男はこのような事態に陥ってしまった。一旦孤独や退屈が訪れたら逃れるすべはない。安吾が繰り返し論じていたように、孤独や退屈は人生そのものだからだ。男には初体験の「孤独」や「退屈」からの脱出を案ずるが、策は時間と空間の転換しかない。時間の転換は未来を捨てた過去への遡行であり、空間の転換は旅をすることであるで。誰もがそのようにする他ない。男もまた「孤独」と「退屈」を逃れるため過去への遡行の旅として、山への帰還を都の桜の木の下で決める。
 男が山への帰還の決意を女に話す。女は裏切られたと怒り、「---私を嫌いになったのかい。」「お前と一緒でなきゃ生きられないのだよ。---」と反発するが、ついに男と山に帰ることを決める。「お前と首とどっちか一つ選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」とまで言う。男は夢ではないかと思い、胸は新たな希望で一杯になる。ここでは男の「女を捨てても山へ帰る」という絶対的な決断が女の強い反意をも突き破っている。相互の所有関係が再び変転し、男は主人に、女が奴隷に戻る。
 二人は旧道を歩く。男は女と出会った時のことを思い出し、「---あれが皆な俺の山だ。---」を再び口にする。男は恐れることなく桜の満開の下にたどり着くが、その時「女の手が冷たく」なり、女は「全身が紫色の顔の大きな老婆---口が耳までさけ、緑色の髪をした---鬼」に変わり男を襲おうとする。鬼との格闘の末男は女を殺してしまったことに気付く。男は生まれて初めて泣き付し、虚空の中に「哀しみ」を感ずる。男が死体となった女の顔に落ちた花びらをとってやろうとすると、女の姿が花びらに変わり、男の姿も虚空の中に消えてしまう。恐ろしく、また悲しくも美しい本作品の終焉である。女の鬼への変貌は「文学のふるさと」の「救いのないもの」の到来であろうが、それとともに欲望を封じこめられ所有主体を男に返してしまった女の絶望とそれでも男と生きる選択しかない女の哀しみが招いた究極の生の形が鬼なのだろう。男は桜の下で、気違いになりそんな究極の生を生きようとした女を殺してしまった。長く女に所有され女の欲望の時間の中で生きてきた男が、女を失ってしまえば時間も喪失してしまう。既に時間を所有してしまったも男が、それを失えば生きる世界なく、男もまた世界から消滅する他ない。それはもしかすると訪れることのない未来への飛翔なのかも知れない。かつて男にとって超越的なものだった満開の桜は、実は世界そのもの、時間そのもののように思え、初めから男と女を虚空の中で司っていたようにも思える。
 大原氏は本報告のまとめとして、歴史的文脈を踏まえ、本作品は「よく分からぬまま山=戦時中の時代を暮らし、新たなもの=戦後占領が来ても、またよく分からぬまま都=戦後世界に飛び込んでしまった男=日本人」の比喩であり、これは現代でも強い示唆と教訓を持つものであるとされた。極めて卓見であろう。

 最後に大原氏報告のキーワード「所有」、「欲望」、「時間」等を手掛かりに、本作品での意味合いを再確認しながら今日的な状況を踏まえて、整理してみたい。
「所有」と「欲望」は本作品では主人公の男と女、二人の関係の中だけで展開される。この形態の「所有」と「欲望」は直接的かつ手に届く現実であり、童話的な美しさを持つ一方閉鎖的で出口のない恐ろしさもある。それは一つのユートピア(どこにもない場所)の物語でもある。今日の「所有」と「欲望」は、こうしたユートピアを超えて、「欲望」は無限の他者を求めて彷徨い、「所有」もまた欲望取引の場に合わせて拡大し、貨幣や証券等観念化抽象化が進んでいく。物質的欲望や貨幣的欲望に加え、名誉や地位、人気等第三者である他者への欲望が増殖していくため、本作品のような男女間の欲望のウェートは相対的に小さくなる。一方法的には男女間の関係を「所有」をもって律することは禁じられ、両性合意の契約関係がこれに代わり、また男女関係を超えた同性関係等も同じ範疇で整理されつつあるが、法は制度に過ぎずそれが全てを規定できないのは、安吾の慧眼の通りである。今日無限拡大を続ける「欲望」により人々は自らの存在基盤を失い、「所有」は功利性の枠を超えて「所有のための所有」に転ずる。本作品でも女の欲望が無限に増殖していくかに見えたが、女の欲望は「物への欲望」、「物と人の間にある存在(首)への欲望」、「男への所有の欲望」だったので物理的な歯止めがなされ、最終的には「男への欲望」がすべてに優先した。それが男と女にとって幸福なことだったのかは分からない。一方今日の「欲望」にはこうしたブレーキは働かない。
 「時間」と「未来」を考えてみたい。美しい女と出会うまで、男には未来はなく、それゆえ時間もなかった。過去と現在だけで生きる者には時間は不要である。男が夢見た「未来」は女との生活による楽しみだったが、それが何であるかは男には分かっていなかった。そのようなものは元々なかったのかも知れないし、「未来」がそもそもそういうものなのかもしれない。「未来」のないことは必ずしも不幸とばかりは言えない。男が美しい女と出会わなければ、ずっとあのまま古女房達と山で暮らしていただろう。女との「未来」を夢みたために違う暮らしに入らざるを得なくなった。それは女が美しく、そして分からない存在だったからだ。分からない存在は常に不安を招く。だが分かっているものだけでは永遠に「未来」は見えない。今日の社会はあまりに様々な情報が流れ多くのものが既知となっている。それが今日の未来のむずかしさに繋がっているのだろう。
 「孤独」と「退屈」もまた本作品の鍵だ。男は都で「孤独」と「退屈」に直面した。女もまた男が山に帰ると告げた時、「孤独」を恐れそれに従った。だが、美しい桜の森の下で男も女も消滅してしまう。男は「孤独」や「退屈」を乗り越えたのだろうか。女の「孤独」へのあまりに大きな恐れが桜の木の下の出来事を招いたのだろうか。いずれにせよ本作品の「孤独」や「退屈」は恐ろしい。だがそれなくして人生はありえない。今日ではあまりに「孤独」と「退屈」が忌避され、人と一緒にいればいいとか、働いて時間をつぶせればいいと安易に考えてしまう。改めて安吾とともに「孤独」や「退屈」が持つ人生の意味を改めて確認していかなければならない。
最後に「桜」のことを考えたい。桜は本作品では空間時間を超越する絶対的な存在である。また年に一度だけ花を開かせる循環的な存在で、花が咲いた時の桜は限りなく美しい。男は常に桜を恐れ分からないものと思っていた。それはこうした桜の属性ゆえだ。そして桜はまた「日本」である。本作品の「山」は閉鎖的で未来を排除したもので戦前社会の暗喩だったが、「桜」は戦後も含めた日本社会全体の暗喩だろう。美しく、循環的で、超越的である。そして魔力を持っている。日本社会の魔力には、分かりにくさ、何物も取り込んでブラックホールのような中空性、全てを包み込んでしまう母性原理や女性原理がある。さらに時が過ぎる中で一旦全ての過去が忘れられ、時がたてば再びそれが戻ってくる無限に近い循環性もある。安吾は一方でこうした魔力を持つ日本社会を強く愛しながら、他方でまた激しく憎んでもいた。私たちも同様に愛憎を重ねながら日本社会を生きていくほかないが、本作品の男と女のように美しい桜の下におぼれ、分からぬままに自らを失っていってしまうのが幸福なことでないことだけは、改めて確認しなければならないだろう。

 IV. 終わりに
 最後に全くの蛇足だが、両作の安吾文筆活動の中での位置付けを改めて確認しつつ筆者自身の紹介と若干の展望を述べておく。筆者は精神的に不安定で不毛だった学生時代安吾を読み始めた。四十年も前の話になる。卒業後は長く経済界に所属してきた文学分野では全くの素人であり、研究者としては初心者以前の段階にある。安吾の魅力は、複雑で多様な現実世界や思想にどこまでもにじり寄り、その全体を掴みとる努力を続けつつ、それを詩的表現等美の世界との調和の中に独自の造型を図ろうとした努力にある。具体的な作品においてその試みが完全に結実したとは言い難いが、挑戦が魅力的なことに加え、誰よりも強い虚無感を持ちながらも、死への欲望を果敢に退け、どのような事態に会っても生き続けようとしたことも強い魅力だ。

 今回改めて両作品を読み返し、研究会での報告討議を伺って考えてみると、同じ寓話的幻想譚にも拘わらず安吾の文学履歴における時代の相違を痛感する。勿論幻想譚である他に、主要人物が二人だけで脇役を入れても三人とか、二つの場所を往還する物語とか共通点もあるが、違いの方が大きい。「木枯の酒倉にて」は文学的意思の明瞭さに反しそれを支え得る現実に根差した思想が十分形成されておらず、詩だけが表層を彷徨っていて根っこが弱い感じがある。それに比べ「桜の森の満開の下」は、いくら読んでもよく分からないことの方が多いのに、実に力強く私たちに迫る。長く不遇な文壇青春期を戦中から敗戦の暗黒の時代に過ごし、そこから逃げずに主体的に立ち向かうことで形成された思想の強さが、戦後直後発表されたこの作品の力を強靭に支えているからであろう。筆者は骨太に思想と詩の統一を試み、強靭な思想家と詩人の両立に向けた挑戦を続け、道半ばで力尽きた安吾を「未完のマージナルマン(境界人)」と呼ぶ。そして今後とも安吾作品を読みつづけながら、可能な限りの思考活動を続けていきたいと考えている。その意味からも今回研究会に参加して聞くことのできた両報告と討議には極めて触発されること多かった。改めて感謝申し上げたい。加えて引き続き研究会会員各位からの思想的文学的鞭撻を重ねてお願いするものである。(了)

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第29回研究集会


第29回坂口安吾研究会(於・日本大学商学部、2016年9月18日)
印象記
大西 洋平
 坂口安吾研究会第29回は、まず池中愛海氏・クリストファー=シェレター氏「創作メルヘンおよび〈創作説話〉にみる超自然的美――『桜の森の満開の下』、『紫大納言』、『ウンディーネ』の比較より――」より開始された。
 両氏はドイツ文学専攻であり、副題の二作とフリードリヒ=フーケ『ウンディーネ(Undine)』(1811)に材を取り、さらにポー『構成の哲学』、安吾『文学のふるさと』を用いてご発表いただいた。以下に内容を約言する。
 まず〈絶対的な美〉が読者に提示される際、読者の想像力は現実や主観や経験・文化的コンテクストの影響を受ける。しかし、そうした諸拘束に対して、「絶対的な美」が作中で神話と関連付けられて描写されることで、拘束乗り越えは可能化されるという前提条件を両氏は述べる。また、ポー『構成の哲学』によれば、「絶対的な美」とは「メランコリー」によって惹起されるものであり、「メランコリー」が最大限に表現されるのが死であるとする。また、安吾の描く美の本質は「絶対の孤独」であり、「メランコリー」と共通するものとする。この二つを基軸としたとき、『桜の森の満開の下』『紫大納言』を「説話」として括ることで対象作品として浮上してくる。作品読解にあたっては『構成の哲学』及び『文学のふるさと』と重ねて、「超自然的な美」(=神話と関連された「絶対的な美」)によって登場人物が操られ、また、「美」を有するものが殺害或いは貶められる物語構造を指摘する発表であった。
 会場からは『構成の哲学』を安吾の作品に援用できる根拠が問われ、安吾の思想・文学観との差異はないのかという質問や、安吾が下敷とした物語のヴァリエーションと受容にあたっての思想的ステップ、〈説話〉なるものの定義と安吾が最も影響を受けたものの対象を問う質問が出た。筆者の管見を述べれば、ポーの詩論に作品を吸収させる前に、まず一作品のなかでどのような文脈・主張が展開されているかを読解する必要を感じた。先述の会場質問にも似るが、共通点が多いから作品を同列視するのではなく、ポーと安吾の差異・作品同士の差異こそが安吾/作品の特質の素となりえるだろう。切り口自体は新鮮さを感じさせ、まとまった見解となれば安吾の研究史・作品読解に貢献する端緒を切ることができる可能性を秘めているように思われる。

 続いて、山ア義光氏は「「続堕落論」の論理と回路」と題しご発表いただいた。氏が問題とするのは『続堕落論』に見られる二つの「水準」である。ひとつは旧来の秩序・道徳(カラクリ)に束縛されることを否定する、いわゆる「堕落」を主張する方向であり、発表者によれば「根源的な「人間」性を肯定し「カラクリをくづ」す「文学」の水準」とする。他方で、「人間は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれてゐない。何物かカラクリにたよつて落下をくひとめずにゐられなくなるであらう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくづし、そして人間はすゝむ」(『続堕落論』)と表明されるように、新秩序・理想、政治を語る水準であるとする。両水準は一見矛盾するように見えながら、発表者は矛盾ではなく循環関係であると捉える。加えて、1946年前後の評論・小説に『続堕落論』と同型的論理が内在することを明らかにするという目標で進められた。
 まず『続堕落論』中でも言及される尾崎行雄の世界連邦論を精査し、『咢堂小論』と併せることで前者の水準を明確にする。「全世界ノ独立国ヲ網羅シテ一種ノ中央政府ヲ設ケ国際紛議ノ予防ト裁決」(『世界連邦建設ニ関スル決議案』)を求める尾崎の論旨に対して、安吾は「大いに結構だ」と言い放ちつつ、「人間の真実の生活」を「対立」に見て、人間が設けられた秩序へ「反逆」「復讐」することに人間の実相を見ようと。一方で、先に引用したように新秩序=「カラクリ」を不可避的に求めてしまうのも人間の「真実」として受け止める。こちらの水準から『戦争論』『スポーツ・文学・政治』は立論されていると述べられた。つまり、前者の理想的ユートピア否定とは矛盾しているようでありながら、その実、「カラクリ」を求めることも人間の「真実の声」であるために「カラクリ」が必然化する。「堕落」は「カラクリ」が作られた先で目指される営為なのだとすれば、両水準は矛盾するのではなくむしろ「循環的な論理の回路」なのであるとする。
 そのような視座の下、発表者は小説『恋をしに行く』を取り上げる。周知のとおり本作は『女体』の続篇として執筆され、『女体』に登場した谷村が岡本の元弟子・信子に「魂の恋」を求める小説である。花田俊典によれば、『白痴』『女体』『恋をしに行く』の系譜を引き、女性形象を巡っての発展性が考えられるとした(「〈健康な肉体〉の発見」『語文研究』1982.6)。これに対し、発表者は発展性よりも循環性を強調し、その解釈は「欲動」の論理で締めくくられた。スラヴォイ=シジェク『斜めから見る』を引用し、「欲動」は目標の達成を終点と見るのではなく、終点に至る「道」を究極目標と見て、「終点に近づいたり遠ざかったりしつづけること」こそが「欲動」を再生産するという。この知見から『恋をしに行く』は「目標」と「欲動」の関係は「恋」と「肉体」のそれに適している。すると、結末で谷村が感受した「欠如」こそが「魂の恋」の本質となり、「欲動」の維持である。翻って、そこには『続堕落論』で抽出された論理の原型がある。『続堕落論』の第一の水準とは「肉体を否定して魂の恋を志向する」ベクトルであり、第二の水準は「堕ちきる手前で現実的な関係のかたちを作らずにはいられない」ことに相当する。安吾の描いたものとは、生きる目標として設定されたカラクリを否定して尚「欲動」の目標を求めずにはいられず、そこに人間としての「生の享楽」を得られるところに人性の実相を見る文学観にありダイナミズムを有するものであるとした。
 会場からは、この「循環性」が三島由紀夫『仮面の告白』でのセバスチャン殉教の問題との類似が指摘され両者の相違を問う質問が出た。発表者も安吾の「循環性」と三島の「殉教」が類似する点で同意し、質疑は次の浜崎氏のご発表に接続する展開を見せた。また、小説と評論を多様に発表した当時の文学活動のなかで二つの水準はどのように作用するのかという質問に対して、発表者はそうしたジャンルの垣根を越えた上での論理の連続性を重視する志向を強調しつつも、『桜の森の満開の下』などをどのように含みこめるかを検討する必要にも言及した。また『街はふるさと』を解釈するに当って有効な角度であろうという発言もあった。また終末部で登場した「欲動」に関しても、循環的な「道」を辿ること自体を目標化する点をどう評価できるのかという質問に関しては、発表者は『街はふるさと』等のある所で「凡庸化」していく作品への展開を見せると答え、そうした作風の落ち着きをどう評価していくのかが今後の問題となるだろうと答える。あるいは「循環回路」が前期の文学活動と紐帯したものであるのかを問う質問も投げかけられた。『文学のふるさと』や『日本文化私観』にその胚胎を見ることができようという回答で応じられた。
 蛇足ながら管見を添えれば、たしかに『余はベンメイす』でも述べられるように、「真理」を「探されることによって」しか実在しえないものと捉える視線を思い起こさせ、実に刺激的な発表であった。戦後の一時期をこのように解するとするならば、質問にもあったように、そうした思考の有り様をどのように受け取ることができるのか、或いは、文学観としてどのように実作されたかを問い、その思考はいつ変化したのかを問うことが今後の課題となりえるだろうと感じる発表であった。
 以上が筆者の理解が及ぶ限りの前半印象である。


2016年9月18日 坂口安吾研究会 講演 印象記
浜崎洋介氏「「カラクリ」の向こう/「ふるさと」の一歩手前―坂口安吾のファルス―」
早川 芳枝
 研究会の最後に講演者として登壇された浜崎氏は、はじめに福田恆存研究によって立ち現われてきた安吾像が「心の暖かさ」「素直な優しさ」を持つ人であると述べた。その上で『わが思想の息吹』と『百万人の文学』に見える安吾の信念を、これほど常識的でこれほど真っ当な信念はないと非常に高く評価している。
 この安吾に対する評価は、福田と安吾がともに影響を受けたチェーホフとその文学への、浜崎氏の深い理解と共感に根ざすものである。福田恆存は坂口安吾を「太宰治を超えて出てきて人間」ととらえている。それは超常性や現実否定的な傾向を安吾が排していること、それらを排した後の文学のあり方を示唆しているというのが浜崎氏による見通しだ。氏は安吾作品の特徴を、すべてのエゴイズムを整然と突き放していった果てに現れる冷たい虚空で人の孤独を抱きしめるものとした上で、それを「独特のいたわり方」ととらえる。さらに『ファルスについて』や『文学のふるさと』に見える文学的姿勢を、死やナンセンスに突き抜けることでもなく、社会的カラクリを全否定するのでもなく、それらが生い立ってくる基盤に目を向けるものと指摘した。
 安吾のファルスは悲喜劇を突き抜け、超越性を前提とした見通し(社会のカラクリ)を突き抜けて、どうにもならない矛盾を描く文学形式として現れている。重要なのは、縫合し得ない意識と自然、空想と実際とのズレを描く際に安吾は意識の側から描こうとしている点である。意識を突き放しているものは、ベンヤミン的に言えば自然史であり、安吾の言葉で表現するなら個を没入せしめた別個の巨大な生物としての歴史と言うことができる。しかし当然ながら我々はそのような巨大なものを、すなわち「ふるさと」を対象として同定することは不可能である。人間はそれに振り回され続け、各人が孤独にそれらに応接するしかない。
 浜崎氏はこの「ふるさと」と、空想と実際とをつなぐ見通しとしての「カラクリ」について『白痴』を引き合いに出してさらなる分析を進める。白痴の女と戦争はともに「ふるさと」としての機能を果たしており、すべての「カラクリ」の虚妄ぶりが強調される。伊沢が「そのとことんの所で最後の取引をしてみる」というように、「ふるさと」としての死から身を引き剥がすとしても限りなくそこに接近しなければ意味がなく、まして死んでしまっては意味がない。安吾が認める美しさとは、完全なる虚無ではない。いつか死ぬ存在として生きなければならないという矛盾の前に、考えることをやめられない人間の姿である。そうした人間のありようを肯定するとともに、その矛盾によって生まれる滑稽さを描くことこそが安吾にとってのファルスに他ならないのである。
 浜崎氏は福田恆存の言う「安吾の心の暖かさ」とは、矛盾した人間的事実を認める安吾の眼差しを指しているという見解を披露して講演を閉じられた。だが安吾の作品からこのようなものを読み取る浜崎氏自身こそがその評価に相応しいのではないか。質疑応答においては、三島由紀夫と安吾の対比(虚無と虚無の一歩手前)、福田恆存と安吾の対比(崇高な「全体」とグロテスクな「ふるさと」、信じるものを語る福田と語らない安吾)といった非常に興味深い構図が披露された。さらに安吾は「言葉」を自分と距離をとるための道具であるという自覚が薄いという指摘や、「カラクリ」と「ふるさと」の間を行き来して考えることが安吾の特徴であるという指摘など、ある種の欠落や矛盾をもフラットに受け取る真摯さがにじみ出る講演内容だった。

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第28回研究集会


坂口安吾研究会第28回研究集会印象記
堀内 京
 坂口安吾研究会第28回研究発表会の最初の発表は、デウィ・アングラエニ氏による「『吹雪物語』における植民地主義をめぐって」であった。  『吹雪物語』の根底に、矢田津世子と安吾自身の恋愛があることは広く知られている。よって、これまでの先行論も作家論やジェンダーの切り口から論じられることが多かった。それに対し今回のアングラエニ氏の発表は、こうした先行論を踏まえながらも、「吹雪物語」において「満洲」がどのような働きをしているのかを考察するものであった。
 まずアングラエニ氏は、@1930年代の言説空間における「故郷」への志向、A「満洲ブーム」、B「故郷」から「異郷」への「移動」という三点に着目した。澄江が満洲に渡る最たる理由は、青木卓一との恋愛にまつわる苦悩にある。しかし、澄江は新潟を去りたい理由を「もう暗らい無気力なこの土地がほんとに厭だ……」あるいは「とても落ち付けない」「新潟にいられない」とも語る。アングラエニ氏は、卓一との関係に苦悩する澄江が一方で「日本人離れのした異国風な新鮮さが漂」うジョーヌに惹かれていくことから、澄江の嗜好が、雪国「新潟」の閉鎖性よりも、新しい土地である「満洲」の方にあることを指摘する。無論、澄江は満洲が「王道楽土」をスローガンに作られた傀儡国家であることを理解しており、「新京」についても「恐らく町の精神もバラックだ」と考えている。しかし、そうであるにもかかわらず、澄江は「新京」へ行き、二度と戻らない覚悟をする。このことから、アングラエニ氏は澄江の行動を「植民地主義への象徴的な参与」だと意味づける。なぜなら、澄江が満洲で結婚しようとしている「役人」は、日本の植民地統治に従事していると考えられるからである。しかし、澄江が結婚するかもしれない相手が「ロシア人のように粗暴きわまる情熱家で、のんだくれで、それゆえ単純な子供っぽい男」であることから考えれば、「新京」は澄江にとって「自暴自棄・自己投棄」のための場所でしかない、とアングラエニ氏は捉える。
 会場からは、発表要旨に記載されていた「満洲」が「男性身体化」を指すとはどのような意味か、発表の中で論じられていた澄江の「植民地主義への象徴的な参与」の内実は具体的にどのようなものなのか、今回扱った「満洲」は古川澄江にとっての「満洲」なのか、それとも坂口安吾における「満洲」の問題を捉えようとするものなのか、本発表で着目した「バラック」は「日本文化私観」におけるそれと通底するものなのか、などの質問が寄せられた。
 筆者も、発表者のいう澄江が「植民地主義への象徴的な参与」の役割を果たしているという点については、もう少し発表者の説明を聞きたかったという思いが残った。安吾と同時代を生きた作家たちは、満洲に渡る多くの人たちを描いてきた。そのような同時代状況を踏まえた上で、「吹雪物語」における満洲の役割を考察すれば、澄江が満洲に渡る意味はさらに明確になったことだろう。澄江は満洲に新しい土地を耕しに行ったわけでなければ、強制的な結婚をさせられたわけでもない。あくまで卓一との恋愛の苦悩の末に、自発的な選択に基づいて満洲に渡っている。そうであるならば、澄江にとってはその行先が満洲でなくてはならない理由があるはずである。その点を明確にすることで、澄江と満洲の関係がさらに掘り起こされ、「吹雪物語」において満洲の問題が描かれることの問題が浮き彫りになるように感じられた。
 本発表は、これまであまり着目されてこなかった「吹雪物語」における「満洲」の問題を本格的に検討した点において、大変有意義なものであった。


第28回研究集会印象記(後半)
牧野 悠
 研究集会後半は、福岡弘彬氏の「「堕落」と「運命」――坂口安吾「堕落論」と保田與重郎的「デカダンス」の関係をめぐって――」 と、浅子逸男氏による「「三十歳」における虚構について」であった。  福岡氏は、混乱を抱え込む「堕落論」の作品構造に着目し、坂口安吾が独自の「堕落」概念を把捉するまでの過程を読み取る。昭和十年代の安吾は、保田與重郎が唱えた既存道徳を超克しうる「デカダンス」の可能性を巡っての言説と、近しい思想的位置にありつつも、「感傷」を限界に定める懐疑の不徹底も、同時に表白していた。氏は、保田の「デカダンス」が讃美する運命論的な破壊への服従と、「堕落論」で語られた空襲の美に同質性を指摘した上で、有名な「運命はあつたが、堕落はなかつた」という一節に着目する。「運命」と「堕落」との分節は、決定論的な「死」を美学化する論理から、平凡な人間の「生」を奪回する主体構築のための言語行為であり、「偉大な破壊」の美しさを「虚しい幻影」と変換させる認識の転倒も、「感傷」の桎梏から「理知」によって脱却を試みる思考に由来するのである。こうした議論は、適確な安吾・保田テキストの対置、細密な読解に裏打ちされ、非常に説得的かつ刺激的であった。  本集会の掉尾を飾る浅子氏の発表は、「三十歳」に設けられた最大の虚構、本郷菊富士ホテルにおける矢田津世子との最後の逢瀬を、二・二六事件前日に設定した作為について、問題提起するものだった。全集に収録された書簡により、事件以後も交渉の継続は明らかである。そこで氏は、Wのイニシャルで「二十七歳」に現れる、和田日出吉に焦点を中てる。矢田と恋仲にあった和田は、事件発生後の首相官邸を初めて取材した新聞記者であり、彼に対する安吾の意識が、作品に時間的改変として現れたのではないか、と推測できるという。「紫大納言」や「戯作者文学論」なども補助線として援用し、安吾が創出した矢田津世子表象の相対化を図る考察について、一部を発表者自身は「暴論」と断ったが、それは謙遜と解釈したい。会場から投げかけられた、作家のスキャンダルが商品として演出される問題など、興味深い議論を導く萌芽と感じられるからである。後に提示されるであろう論文が、実に待ち遠しい発表であった。  この後の共同討議でも、活発な議論が交わされた。会場には坂口綱男氏も顔を見せ、新潟の風土を中心とする知識提供があったのも貴重であった。集会が盛況裡に終了したように、読者の裾野を広げる場としても健在である。例えば、Eテレの「100分de名著」(2016年7月に「堕落論」が4回に亘って取り上げられた)で興味を持った初心者でも、豊かな知的体験を得られるに相違ない。一人でも多く来場者が増えるよう、切に冀う次第である。

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第27回研究集会


坂口安吾研究会印象記(前半)
宮澤 隆義
 第27回研究集会の発表は、松村良氏「「棋」を記す安吾」からはじまった。松村氏は安吾における囲碁と将棋のテーマをとりあげ、そのうち特に囲碁に注目した上で、当時の新聞等のメディアで活発であった「観戦記」と安吾の関わりについての発表を行なった。  氏は作成した年譜を適宜参照しつつ、安吾が囲碁について強い興味を持ったことは単なる趣味の問題ではなく、メディアにおいて「棋」と「文学」との関係がどのような役割を果たしたかと大きな関連を持つと述べた。氏は「商品としての「棋」」「題材としての「棋」」「安吾にとっての「棋」」という三つの視点を提起し、議論を展開した。
 まず「商品としての「棋」」として、毎日新聞がはじめた囲碁欄・将棋欄は、1926年に始められた読売新聞の「院社対抗戦」において多大なる人気を獲得していたことを氏は説明した。観戦記はこれらイベントを盛り上げる要素であり、やがて河東碧梧桐や村松梢風、笹川臨風、菊池寛、三上於菟吉らが動員されてゆく。この流れは本因坊秀哉名人引退碁の観戦記を書いた川端康成の「名人」や、戦後の安吾による「本因坊・呉清源十番碁観戦記」「散る日本」「勝負師」等へと関わってゆくと氏は述べた。
 次に、氏は碁と将棋が安吾にそれぞれ題材としてどのように受け取られていたかについて述べた。『吹雪物語』への挫折から囲碁に打ち込んだこと(「囲碁修行」)、また安吾の腕前は現在の段位で言えば五段以上と推測されることから見て、その打ち込み方はかれの「アイデンティティの一部に含まれていたものと考えられる」という。一方で将棋について書かれた文章からは、あくまでも棋士の性格や心理を読みとることに徹する姿勢が見られるのみだとした。安吾が注目した木村義雄や升田幸三、大山康晴らは、むしろ安吾の思想を語る手段として用いているだけなのではないかと論じた。
 最後に氏は、安吾の文学における呉清源の存在の大きさについて述べた。安吾は呉清源の碁を、「非人間性」に徹した「機械」や「鬼」であると評しているが、これは安吾にとって、爾光尊を信仰した呉清源の「調和の原理や人生観はいかにも三流的」であるとする評価と表裏一体のものであった。呉清源の碁の強さはあくまでも「技術」や「コンディション」の問題であり、この場合人格とその腕前は切り離されてとらえられている。これは川端「名人」における棋士への「リスペクト」等とは全く異なるものであり、そのような「リスペクトと愛着」を突き放したところに安吾の「棋」の特徴があると結んだ。
 囲碁・将棋に関する安吾の研究は、多くの人間が気になりつつもいまだ考察が十分には進んでいない領域だけに、きわめて貴重な発表であった。江戸時代からの囲碁・将棋に関わる制度とメディア、そしてそこに関わってゆく作家たちの問題において安吾をとらえ返しつつ、囲碁・将棋それぞれに対する安吾の態度の違いを論じた点には大きな意義があり、また不案内な評者にとって勉強になった。しかし同時に、小説におけるモチーフや、安吾の発想に囲碁や将棋のあり方自体が与えた影響や関係性についての議論が欲しいと感じたことも事実であった。これらが安吾の小説等の問題とどのように関わっていたのか(あるいはいなかったのか)については、さらに今後の様々な論究が俟たれるところでもあるだろう。
 続いて、尾崎名津子氏の発表「織田作之助にとっての〈大阪弁〉――総力戦体制下における〈地方〉・〈方言〉言説との関わり」は、大政翼賛会による地方文化運動が、〈地方〉や〈方言〉を中央に対する「劣位」におきつつ活用しようとする中で、織田作がどのような形でその「劣位」のポジションを逆手に取って自らの小説内に活かそうとしたかについての発表であった。
 1940年に決定された近衛内閣の国土計画は、中央と地方の関係を再編成していったが、そのなかで「郷土」や「風土」といった言葉は「郷土愛」「公共精神」「集団主義文化の発揚」といったスローガンにおいて浮かび上がっていた。文芸誌においても地方文化運動が見られたが、それは「中央/地方」の区分を実体化しながら、「自主性」と「特殊性」を体現するべきものとして語られていた。その中で織田作は、〈地方〉としての〈大阪〉を仮構するという方向性を取っていったと氏は指摘する。織田作は谷崎潤一郎を参照しつつ「地方文学」の向上をとなえるが、氏はその問題を当時の「標準語」と「方言」の側面からとらえ返してゆく。
 当時、「方言」は社会進化論的な枠組みの中で「標準語」の劣位におかれていた。「大東亜共栄圏」の中で「国語統一」の運動が起こされる中、「方言」は「無秩序」「不統一」として現れる夾雑物であり、例えば橘正一『方言読本』(厚生閣、一九三七年五月)では「有害」で「いつかは矯正されて無くなるもの」とまで語られていたことについて氏は指摘する。しかし同時に大阪方言については様々な意見が語られており、あるいは「醇化」するべきだとするもの(池田武四郎)、あるいはそこから「方言文学」の登場を望むもの(東條操)、あるいは笑いにおいて「大阪弁」を特色づけようとする動きもあり(佐久間鼎)、「大阪弁」をめぐる新たなヒエラルキーの再区分化が行なわれていたことを氏は指摘する。
 織田作はこの傾向を横目に見つつ、1930年代には「使うのを恥じていた」としていた大阪弁をその後積極的に小説内で用い、「面白い」大阪弁に対する別の可能性を付与しようとした。織田作は「大阪弁」における敬語の発達を、「大阪人の物への観念が顕著に現われている」という視点からとらえ、そこでは「物乃至金」が「倫理的なもの」と結びついていると解釈していた。いわばそこで織田作は、「単なる一地方の方言になり下ってしまった」大阪弁に対し、大「坂」弁の再興を唱えながら、一種の理想化を行なっていったと氏は述べる。そしてそこに言語表現の「豊饒さ」を見出そうとすることで、同時代の言葉をめぐる枠組みを逆手に取りつつ利用して、自らの文学の可能性と新たな表現形態を見ようとしていたと氏は語った。
 同時代状況における「地方」「方言」をめぐるポリティックスと織田作との関係、そしてそこで格闘したあり方が見てとれる、射程が広くかつ啓発的な発表であった。政治的なテクストと言語の問題、そしてそこに関わる文学のあり方について、現代の諸問題にも重ねられる部分を感じ取りながら発表を聞いた。しかし同時に(質疑応答でも話題となったが)、織田作の戦略でもあった「方言や地方のイメージを逆手にとり、独自の表現を形成する」方向が持つ危険性についても感じさせられる部分があった。確かに、当時の国語政策との発想の違いや方向性の違いは織田作に見られる。だがこの違いが、はたして当時の政治的な枠組みをどこまで逃れ得ていたのかについては判断が難しいところだろう。織田作が「大坂」に対し行なった意味づけは、一回りして別のオリエンタリズム的なイメージの生産に包摂される可能性はないのか。あるいはこの特別な〈ひねり〉は、時代の力学を逃れる潜勢力を持つものなのか。ここに見られる、特殊と普遍をめぐるポリティックスはまさに現代にも通じるものであり、そのことを改めて考えさせられた興味深い発表であった。


坂口安吾研究会 第27回研究集会 印象記(後半)
加藤 達彦
坂口安吾研究会・第27回研究集会の3人目の研究発表は、山根龍一氏による「安吾文学と〈軍事〉―一九四二年上半期の諸言説を手がかりに―」だった。
山根氏は、最初に今日は結論めいたことを述べられないが……と断ったうえで、おもに「日本文化私観」(昭和17・2)を対象に安吾テクストのストラテジーが戦時期の思想や時局的な言説にいかに対峙し、どこまで批評性を保持し得ているのかということについて、当時のさまざまな言説を参照しつつ、問題提起的な発言を展開された。
周知のように「日本文化私観」の安吾の主張には「大東亜戦争≠フ論理」と重なるような部分があり、そのモチーフの捉え難さは夙に指摘されてきたところである。
今回の山根氏の発表は、そうした先行論を踏まえながら「物心一如」を背景とした精神主義的な思潮や美をめぐる〈モダニズム〉の文脈、あるいは指揮官談話と〈戦記〉における語り手の視点の差などを問題として取り上げ、より広範な視座からあらためて「日本文化私観」を捉え返す試みだったと言えるだろう。
安吾の言葉をいたずらに称揚することなく、あくまで「日本文化私観」を同時代の言説なかに位置づけ、その論理を丁寧に辿ろうとする山根氏の姿勢にまずは大いに賛同を示したい。が、その一方で今回の発表には、正直なところ、些か物足りなさ≠感じたのも事実である。
研究上、当時の基礎的な資料を再検討していくことの大切さは当然であろうが、そうした同時代の言説を押さえつつ、もう一度安吾のテクストに立ち返ったときに果たしてどんな読みが新たに可能となるのか――やはり、そこまでもう少し突っ込んで聞いてみたい気がした。
たとえば、山根氏は〈必要〉という言葉をめぐって、戦時において「役に立つ」実際的な実用性や「外的条件」から生み出される文体の簡潔性ということを指摘されたが、そもそも安吾がしきりに主張していたのは「生活の必要」ということではなかっただろうか。
戦時期に追求された〈必要〉と安吾が提示した「生活」に根ざした〈必要〉は、似たような発想に見えながら、その立脚点は根本的に異なっており、その懸隔には看過できない問題系が潜んでいるように思われるが、どうであろう。
会場からは他にも〈戦記〉における視点の問題に関わって、たとえば火野葦平の文学を安吾はどう捉えていたのか。さらにはそもそも「日本文化私観」は、いったいいつ執筆されたのか、など多岐にわたる質問が出されていた。
問題提起的な指摘に止まったとは言え、今回の山根氏の研究発表は、確実にそうした多くの問いを誘発するものであり、私自身も「日本文化私観」の多面性にあらためて気づかされた。
一義的な解釈を寄せ付けない「日本文化私観」を戦時期というコンテクストの中にどう位置づけ、そのラディカルな批評性を現代においていかに受け止めていけばいいのか――山根氏の今後の研究に期待したい。

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第26回研究集会


印象記
片岡 美有季
 今回の研究集会は二人の発表者が、期せずして安吾の初期作品、とりわけこれまで「ファルス作品」として評価されてきた作品に対して、それぞれに作品を再評価する試みを行った。
 岸本梨沙氏の発表は、安吾が「木枯の酒倉から」を書いた当時、サティやドビュッシーに関心を寄せていた事実を、同人雑誌『言葉』の「編集後記」や書簡などの作品外の言及のなかに見出し、サティとドビュッシーの関係性を枠組みとして作品読解を試みるものであった。まずサティの音楽について、「「明日」から「今日」に移らうとするフランスの音楽」であるという安吾の言葉を引用し、それが「今日」にならずに「永遠に」「明日の音楽」へと戻り続ける循環構造になっているという指摘があった。そのうえで、「木枯の酒倉から」においても同様に、「狂人」が「飲酒」と「禁酒の聲明」を繰り返し続けるも「禁酒」に至ることがないという循環の構造になっていることを示し、ふたつの構造の類似点を明かした。岸本氏はさらに、サティのそうした創作の特徴が、表現手法を様々に変化させていく安吾の創作態度と重なっていること、またそれが「木枯の酒倉から」における「僕」に表れていることを指摘し、発表は意欲的なものであった。ただ、会場からの質問にもあったように、当時の安吾が音楽に関心をもっていたという事実だけでなく、この作品を音楽と関連させて論じる必然性についての詳細な説明が不可欠であったように思われる。また、たとえば「狂人の独白」のなかで一人称が「僕」「俺」「余」「わし」と揺れている点や、「行者」が「詩を行」うことと「狂人」が「詩的情緒の環」をかけることの相違点など、本文内容に対する岸本氏の理解を詳しくうかがいたかった。細かい表現の解釈にはまだ読解の余地が残されているよう に感じ、課題を与えられた気がした。
 山路敦史氏の発表では、「村のひと騒ぎ」を農民文学とするのは難しいと留意しつつも、同時代における農民文学論争と切り結ぶ点があることに目配りしながら、作品内にみられる安吾の批評性を読み解く試みを行っていて、多くの示唆を受けた。発表ではまず、作品内の「隠居」の死が、「医者」の「口」の問題として語られることによってその死が言葉の問題として収斂してゆき、村の秩序を揺るがす問題となっていくことで、作品の主題として焦点化される過程が指摘された。そのうえで、「隠居」の死という「事実」を突きつける言葉が作品内で排除されてゆき、むしろ現実を無視する言葉が要請される物語が構築されていく、という考察があった。農民文学論争では、自身の立脚する立場のみが正しく、それ以外の対立する相手の立場は現実を無視するものとして批判し排除するといった構図が見られる一方で、「村のひと騒ぎ」においては、現実を言い当てる言葉こそが排除され、現実を無視する言葉が強く要請されているという点で対比的だ、という分析は考えさせられるものであった。さらに作品末尾において、「物語」と現実が一致するという前提のもとにいた「私」が、その認識を揺るがされることによって現実を早急に現実と判ずることが出来なくなり、そのような「私」が自身を「頭の悪い私」と自嘲することは、現実をそのまま書き表せると信じていた農民文学派・プロレタリア文学派に対する皮肉として機能している、という考察も興味深く聴いた。最後に、今後の論の展望として「帆 影」に関しての簡単な論及があったが、今回の発表では触れられなかった部分を含めて、山路氏の今後の論考が俟たれるところである。
 今回の研究集会では、発表者ひとり一人に対する質疑応答が中心であったため、それぞれの発表者が互いの発表に対して意見を交換する時間が設けられなかったことが少し残念であった。これまで「ファルス」の一語で片づけられてきた作品に着目し、新たな観点から作品を再評価しようという両氏の意欲的な試みに、とても刺激を受けた会であった。


いとうせいこう×陣野俊史対談印象記
原 卓史
 今回の公演は、いとうせいこう氏と陣野俊史氏による特別対談であった。
 約一時間にわたる対談の幕開けは、坂口安吾をいつ読んだか? という問いからであった。いとう氏は単行本全集が出たとき、陣野氏は文庫本全集が出たときであったという。図式化できない多様性に酔ってしまう、俗なものを書くときに落ちぶれ感がでるのが普通だが安吾にはそれが感じない、という話が印象的であった。
 続いて、「イノチガケ」をめぐる話となった。興味深かったのは三点。一つ目は、「イノチガケ」が、ロベルト・ボラーニョ『2666』(白水社 2013年)と似ているという指摘。たしかに、安吾もボラーニョも多くの人が殺されていくプロセスと殺され方が淡々と叙述されていく。記述自体は淡々としているのに、書き手の作者の沸々とたぎる怒りを読み取るところが興味深かった。安吾の場合、レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』に依拠しているのだが、ボラーニョもメキシコで起こった事件を取材しているのだろうか。二つ目は、ものを言えなくなっている一九四〇年という時代に、言ってしまえば弾圧されるということを描いたのが「イノチガケ」だという指摘。内心で思っていることを語ることの困難さは、いつの時代にもあるアクチュアルな問題なのだと改めて感じた。三つめは、ヨワン・シローテの言葉はクレオールであるという指摘。多言語に精通する安吾だからこそ、いや多言語に精通するいとう氏と陣野氏だからこその指摘であると感じた。
 「文学のふるさと」は、〈絶対の孤独〉と〈突き放される〉という感覚についての話し合いが行われた。前者については陣野氏が日本にはいないタイプだとし、後者についてはいとう氏が〈突き放される〉という感覚を持つことが重要だと述べた。今の時代に〈突き放される〉という感覚がどのようなものなのか、そのことを考え直すべきだという指摘に大いに納得させられた。
 「日本文化私観」は、発表された前の年に真珠湾攻撃がなされたという事実確認から始まった。いとう氏によれば、時局を考えたらとんでもないところを突いた作品だという。日本浪曼派の考えをバッサリ切り捨てて、停車場をつくれ、もう一歩踏み込めば爆弾を作れとなるが、それを言わないギリギリのところを突いているのだと分析。また、戦争がはじまり、涙が出たと書く一方で、日本万歳とは言っていない。安吾の時局に巻き込まれないところが安吾文学のすごさだという。確かに戦時中の安吾作品は、右とも左ともとれるブレ幅がある記述を確認できる。思想的にどのような立場だったのかという問いでは、安吾文学を捉えきれないということを再確認できた。
 「白痴」は、〈偉大なる破壊〉をめぐって話し合いがなされた。理由のない破壊が公平に訪れるということが「白痴」に書かれている。安吾文学には一貫して公平の感覚があるのだ、と。爆撃は平等ではなく、公平に訪れるという指摘が興味深かった。その他、〈あきらめる〉ということについて、安吾文学の時間についてなど、会場から質問が出た。それに対するお二人からの回答があった。安吾について、どのような読解可能性(読解不可能性も含めて)があるのか、色々と考えさせられる対談であった。
 最後に、この対談の内容は、すでに雑誌『すばる』9月号に一部が掲載されてお り、雑誌『坂口安吾研究』第二号(12月刊行予定)では全て が採録される予定である。当日、この対談に参加できなかった方々には、これら雑誌をご覧いただければ幸いである。

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石川淳研究会・坂口安吾研究会・太宰治スタディーズの会 共同開催研究集会


共同研究会印象記
斎藤 理生
 今回の共催研究会は、最初に司会による趣旨説明があり、各会から1名ずつの発表、続いてディスカッサント1名 および会場から1〜2名の簡単な質疑を経たあと、発表者3名とディスカッサント3名を軸にフロア全体で討議を行う形式で進められた。
 井原あや氏「変貌する「妻」―太宰治「ヴィヨンの妻」と映画「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」」は、小説と映画とを比較して、映画が表題作以外にも複数の太宰作品や肖像写真のイメージをコラージュして作られていることを丁寧に分析した。その上で、原作から「戦後の傷跡」が失われてしまった点を特に問題視した。論旨明快な発表であったが、会場からの質問にもあったように、小説と映画のプロットの比較のみならず、映像の分析などジャンルの特性を踏まえた分析や、氏が評価する原作の同時代性について、より細かな説明があればと 思われた。なるほど氏が指摘したように、椿屋に集う人々の後ろ暗さやそれに対する「さっちゃん」の批評性は、映画からはうかがいにくい。が、それらが『ヴィヨンの妻』に欠かせぬ要素だと主張するためには、氏が原作を一篇の小説としてどのように捉えているかをもう少し示す必要があったのではないか。
 狩俣真奈氏「退屈、あるいは、ありふれた生―「花妖」における金銭と遊びをめぐって―」は、「退屈」が安吾作品の重要なテーマであるにも関わらず看過されてきたことを問題視し、初期作品の用例を踏まえた上で「花妖」を分析した。各登場人物の「退屈」を読み解き、「ふるさと」や「孤独」との関連を整理しつつ、ハイデッガーの退屈論を参照するなど意欲的な 試みであったが、やはり会場から質問が出たように「青鬼の褌を洗う女」「白痴」など同時期の安吾作品における「退屈」との比較は不可欠であったように思う。また、ディスカッサントからの意見にもあったように、前後の時代、あるいは同時代の「退屈」言説のなかで安吾または「花妖」の特色を浮き彫りにする作業も期待される。さらに、安吾がこの新聞小説において事前に「試み」ようとしていたことと実際の作品との距離についても、もう少しうかがいたかった。
 山口俊雄氏「政治の被占領、文学の被占領―石川淳「処女懐胎」から見えるもの」は、一篇をキリスト教の〈処女懐胎〉の奇跡を踏まえた物語として受け取りつつ、そこに「民主化」―特に新憲法―が占領軍に〈 配給〉された現実を読みこめるとした既発表論文「石川淳「処女懐胎」論―奇跡とその引き受け、「民主化」とその引き受け」の意図を改めて説明した。大胆ながら強い説得力を持つ解釈であるが、ディスカッサントの意見にあったように、こうした隠喩をくみ取る解釈においては、新憲法以外のもの、たとえば法の宙づり状態を読み取ることもできそうである。ただ氏もその点は承知の上で、多義的に読めるがゆえに過剰なまでに観念的に理解されがちな石川淳の作品に、今あえて現実的かつ明瞭な解釈の線を引く必要を感じているように見受けられた。個人的には、何かに突き動かされて発言し、行動するヒロインとして「ヴィヨンの妻」「斜陽」など、同時期の太宰作品との類似性が気になった。
 討議においては、期せずして3名の発表が(1)1947年に発表された(2)女性を中心人物に据えた作品に集中したことも手伝って、共通して検討すべき点が鮮明に浮き彫りになったように思う。具体的には、この時期に女性を中心に据えることの意味、新憲法をはじめとする法制度への対応(たとえば婚姻をめぐって)、2014年現在に読むことの意義などである。
 一方で、1947年に強く光が当たったことで、たとえば太平洋戦争開戦前を含む1940年代という幅から見えてくる連続/断絶の問題は、各々の考察には含まれつつも、議論としてはそれほど展開しなかった。また、作家間の違いをうかがう前に、研究者間の対象へのアプローチの違いが強く感じられた面もあった。
 近年、織田作之助を研究している私としては、今回の議論が織田にはほとんど関わらないことが、かえって「新戯作派」における彼の位置を浮き彫りにしているようで興味深かった。また、太宰治スタディーズの会の一員としては、発表でも質疑でも、立場の異なる多くの人々の見解を聞けたことが収穫だった。その半面、学会に近い規模の集まりになったこともあって、普段の研究会のような、参加者同士が発表者と聴衆という垣根を越えて、闊達に意見を交わし合うような雰囲気は感じにくかった。
 今回の共催そのものには十分な意義があったと思う。とはいえ、では今後3作家の研究会を融合させたいかというと、そう思った参加者は決して多くなかったのではないか。少なくとも私は、各々の会が個別に研究を深めつつ、緩やかな連携を継続できればという思いを強くした。そのための基盤を作ってくれた参加者、特に会場校・各研究会の代表者の方々に深く感謝したい。


印象記
帆苅 基生
 今回の研究会は坂口安吾研究会・石川淳研究会・太宰治スタディーズの会の三研究会合同で行われた。テーマを「一九四〇年代の諸相」としたところ、三人の発表者が一九四七年に発表された作品を図らずも選び、様々な方面から時代と文学を検討する良い機会となった。
 井原あや氏は、一九四七年に発表された「ヴィヨンの妻」と太宰生誕百年の二〇〇九年に公開された「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」を比較し、その中で「妻」がどのように描かれているかを考察した。井原氏はここで、太宰の〈原作〉が身体と金銭の問題、憲法など戦後の諸相が織り込まれたものであったの対して、〈映画〉はそれらの雑多なものをそぎ落として夫 婦の愛の物語に収斂してしまっている点を指摘していて興味深かった。夫婦の愛として読み換える力学にはどのような欲望が働いてるのか、考えさせられるものであった。一九四七年と二〇〇九年という時代の隔たり、そして〈小説〉と〈映画〉との違いなど、同じ土俵にあげて単純に比べられない問題が含まれている。これらを踏まえて、シナリオだけでなく映像表現も含めた〈映画〉の分析と太宰の「ヴィヨンの妻」の〈小説〉に描かれた〈諸相〉を比較することでさらに明らかにされるものが数多く残されているのではないかと考えさせられた。
 狩俣真奈氏は坂口安吾の「花妖」における〈退屈〉という表現が、資本主義成立下においては、大量生産・大量消費を生み出し、それがまた個人固有の意味の喪失に繋がり、結果的に〈退屈〉に陥ってしまうことが書かれていると論じた。その中でいかに「生をつくるか」が〈積極的抵抗〉となり得るという指摘であり、あえて時代の枠組みを無視する形での研究発表であったが、同時にそこには時代にとらわれない普遍的な問題として〈退屈〉を捉え直しており、「花妖」がある特定の時代の産物に捕らわれない魅力があることを訴える意欲的な発表であったように思う。しかし同時にそれではこれが一九四七年に書かれた意味は何なのかと再び時代に返す必要もあるだろう。また安吾の他作品において現れる〈退屈〉の文脈と照らし合わせて見ることでより「花妖」における〈退屈〉の意味が明確にされるように感じられた。
 山口俊雄氏はむしろ石川淳の「処女懐胎」を時代に即して読み直すことに徹底していた点は他の二者と対照的であった。「処女懐胎」における〈あこがれ〉の語が、新憲法制定の過程、〈国体変革〉が議論されるなかで持ち出された「あこがれ論」と呼応していることを指摘しているのを始め、「処女懐胎」の中に批評的メッセージが込められていることを論じ、敗戦後の〈変革期〉に石川淳がどのように向き合おうとしたのかが垣間見れるもので刺激的であった。山口氏は論文「石川淳「処女懐胎」論」において、この小説がなぜ三人称で書かれなければならなかったのかを論じ、そこでは〈わたし〉という一人の語り手に集約して書く事の困難さが現れていると指摘している。今回の発表では小説の中に織り込まれた同時代状況という点に絞った発表であったが、そこにそれを語る〈語り〉という点が絡んでくると、小説に織り込まれた同時代とそれを書く表現主体の関係性が浮き上がり、太宰や安吾との相違・相似が明らかになってくるのではないかと感じられた。
 最後に共同討議も踏まえた感想を記しておきたい。今回研究発表で取り上げられた三作が、女性を主人公にしたものである点に関してもさらに掘り下げて検討する余地があるように思われた。なぜ彼らは女性に仮託して物語らなければならなかったのか、そこに時代の空気のようなものが読み取れるのか、新たな課題を与えられた思いがした。
 また一九四七年という敗戦後の法 や制度を始めあらゆる物が変わっていく変革期において文学がどのようにその時代に向き合ったのか考えさせられるきっかけとなる研究会であった。また今回取り立てて「占領下」という状況で書かれている事については深く議論されなかったが、そのようなファクターをいれることで新たに見えてくる物があるように思われた。ある一時代の文学を論じる際に一面的でなく、様々な面、様々な層から考察し得る可能性があること、また考察する中でそこにはさまざまな〈諸相〉が立ち現れて来ることを示された有意義な研究会であった。

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第25回研究集会


坂口安吾研究会25回研究集会印象記
若松 伸哉
 坂口安吾研究会第25回研究集会は二本の研究発表からはじまった。
 最初の発表であった佐藤貴之「「諷刺」への拒否感―坂口安吾「茶番に寄せて」と同時代言説から―」は、一九三九年に発表された安吾の評論「茶番に寄せて」を中心的に取り上げ、「諷刺」とは明確な違いを持った安吾の「道化」の確認を行い、その実践作として翌月発表の安吾の小説「勉強記」にも言及した。人間存在が孕む矛盾を全的に肯定する「茶番に寄せて」の「道化」を、安吾出発期の「ファルス」とも接続させる一方で、同時代文壇における「諷刺」議論、とりわけ獅子文六(岩田豊雄)や尾崎士郎などの作品における「諷刺」との差異について目配りし、非常に示唆に富む発表であった。理想に向けた社会更正の論理を持つ諷刺が、権力批判という姿勢から変化し、戦時下における「建設的」な社会構築に順応していったという指摘についても興味深かった。しかし、「諷刺」的なユーモア小説やそれらをめぐる言説を参照・比較する発表内容のなかで安吾のいう「道化」が位置するところはよく理解できたが、そうした個別具体的な(それこそ「諷刺」的な)対比的参照枠を取り外したときに、「茶番に寄せて」で安吾が改めて言及する「道化」は、それ自体でどのような意義や価値を有しているのか。どこにも向かわないという「道化」=「非生産的な笑い」の実践作として捉えた「勉強記」の小説としての強度とあわせてもう少し深く伺ってみたかった。
 柳井貴士「織田作之助「俗臭」論―書き換えられたテクストの生成をめぐって―」は、一九三九年下半期の第十回芥川賞候補作となった織田作之助「俗臭」が、初出時と後の所収版では長さが三分の一程度になるなど、大きな改稿が施されている点に注目し、そのテクスト生成について論じたもの。「俗臭」の大きな改稿は、戦時下における風俗壊乱へのおそれが直接的な原因となっていると言われているが、そうした外的な要素のみに焦点を当てるのではなく、このテクストの生成・変形から見えてくる織田作之助作品における問題を提起した発表内容だった。初出版では政江の自尊心や自意識が積極的に描かれ、また千恵造・賀来子の物語も大きく言及されていたが、改稿版ではそれらが大幅に削除され後景化し、権右衛門の成金物語となっている点などが具体的に確認されたが、織田作品のなかでは例外的に「俗臭」初出版にのみ記された差別の問題や、「社会主義者」という言葉の空転による「思想」「体系」への批判という指摘が特に印象に残った。質疑応答において今回の発表でなされた指摘と他の織田作品との関連が質問されていたように、改稿時に削除されてしまったこれらの要素は今後の織田作之助研究のなかで重要な役割を持つことが期待できるものと思われるが、概して問題提起的な指摘に終わったのが残念であった。今後の研究の進展を楽しみにしたい。
 佐藤氏は井伏鱒二を、柳井氏は織田作之助をそれぞれ主な研究対象にしており、運営側の発言によれば、坂口安吾研究会の研究発表が直接安吾を研究対象としていない方のみによって構成されるのははじめてだという。個人作家研究会において他作家(作品)が中心的な発表対象となることは、正面切った議論が成立しにくい面があるなど難しい点もあるが、他の作家の研究成果との交通のなかで新たな視点が開ける可能性があることも間違いない。坂口安吾研究会だけに限らず、今後の個人作家研究会の試みにも注目していきたい。


第25回研究集会特別対談印象記
塩野 加織
 今回の講演は、半藤一利氏と平岡敏夫氏による特別対談であった。対談の冒頭で、半藤氏は自身のことを「歴史探偵」と称し、その語が安吾に由来していることを明かした。氏によれば、自身がかつて文藝春秋新社の新人編集者として桐生の安吾宅に逗留した際、歴史談義に耽る安吾がふいに口にした言葉が「歴史探偵」だったとのこと。安吾曰く「歴史探偵」とは、あり得たかもしれない歴史書を仮定し、現行の「歴史」の隙間を想像と創造で埋めていく者の謂いだという。このとき安吾は、半藤氏に向かって「歴史はつくられるものだ」と繰り返しながら「歴史探偵」の意義を語り、ちょうど芥川賞を受賞したばかりの松本清張についても激賞していたそうだ。この歴史談義の他にも、当時の安吾の関心が窺われるエピソードが数多く紹介された。
 続いて平岡氏は、半藤氏の著書『坂口安吾と太平洋戦争』(二〇〇九年二月、PHP出版)に基づきながらいくつかの話題を取り上げ、議論の入り口として提示した。このとき示されたトピックスには、(1)『吹雪物語』と漱石「それから」との類似性について、(2)「真珠」における九軍神の描かれ方について、(3)駆逐艦や戦闘機における美と「日本文化私観」との関わりについて、(4)「堕落論」をめぐる永井荷風の評価について、(5)「ラムネ氏のこと」に描かれた「色恋のざれごと」をめぐって、(6)天皇制と安吾の問題について、(7)靖国神社や薩長藩閥・佐幕派に対する安吾の眼差しについて、(8)坂口三千代『クラクラ日記』について、などがあった。平岡氏は、これらについて適宜解説を加えつつ、問いかけを行なった。
 これを受けて半藤氏は、天皇制と安吾の問題(上記(6))および、靖国神社に対する安吾の眼差し(同(7))に言及しながら、自身の「堕落論」初読時の印象を語った。当時学生だった半藤氏は、「堕落論」を天皇論として受け止め、作者安吾の歴史観に興味を持ったという。さらに、「文学は敗者のもの、正史は強者のもの」という平岡氏の指摘とも関連させながら、「堕落論」には、前述の「歴史探偵」のエピソードに繋がる安吾流の歴史観が読み取れることを指摘した。 会場からの質疑応答では、両氏がともに青年時代に安吾作品と出会ったことに関して、同時代の一読者としては安吾文学をどのように見ていたかを問う声があった。これについて半藤氏は、当時の学生仲間から安吾作品を強く勧められた体験を語り、一方の平岡氏は、自身が敗戦後に抱いた「予科練崩れ」の意識と安吾流「堕落」との懸隔に言及した。
 同じ一九三〇年生まれの両氏とあって、対談中は、作家・編集者・研究者それぞれの観点からの考察はむろんのこと、同時代読者としての体験談等も多く聞かれた。両氏ならではの当意即妙のやり取りを通じて、安吾文学のみならず坂口安吾その人の新たな一面をも垣間見ることができ、聴衆の一人としてはこの上なく贅沢な時間であった。

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第24回研究集会


印象記(前半)
塚本 飛鳥
 第二四回坂口安吾研究会の研究発表はテーマを設けず自由であった。そのため従来取り上げられることの少なかった作品に焦点を当てた発表や、安吾にまつわる作家である矢田津世子や石川淳という視点からの発表がなされた。講演を行わず研究発表と討議のみという、いつもとは少し形態の異なる会であったが、多くの方が来場され、この度の会への関心の高さを伺うことができた。
 最初に行われた萬処恵氏による「矢田津世子「家庭教師」に於ける女性と異郷」は、坂口安吾の思い人である矢田ではなく、戦時下の女性作家の中に生きる矢田を取り扱った発表であった。若い未婚女性が読むことを想定して書かれた本作は、主人公の恋愛観や結婚観を通して、満州に興味を抱かせるように仕掛けられているという。一般女性を率いる女性となることで「女性の解放」を目指す(それは結果的に国策に沿った活動へと結びついてしまう)当時の女性作家の中で、彼女なりに「女性の解放」への道を模索した結果立ち現れる満州、その新しい地への旅立ちを読んだ同時代を生きる銃後の女性達は、どのように感じたのだろうか。そのような読者の状況、存在していたかもしれない作家と読者の隙間について知ることの難しさを思った。今まで安吾の言説から語られることが多く、正面から論じられることの寡少な作家であるが、研究されるべき点はまだまだ多くありそうである。
 片岡美有季氏による「一九四六〜一九四七年の安吾作品における〈肉体〉」は、この時期の安吾作品で多く描かれた〈不感症〉について、従来なされていた〈孤独〉と結びつける読み方ではなく、安吾の表現の試みのひとつと位置づけて読む発表であった。〈不感症〉の言葉でのまとめられていた登場人物に様々な位相があることを明らかにすることで、一九四七年発表の「花火」を女性性欲の表象の転換点とし、そこにおいて不感症の女性一人称の語りのために描き得た快楽は、安吾が描こうとしていた「人間の正体」に迫るものであることを示された。「花火」は「青鬼の褌を洗ふ女」へと向かう途上の作品であるとされていたが、質疑応答の際にも質問が出ていたように本作以降の「私」は不感症ではなくなっていく。ここで試された手法はその後どのように展開されていくのであろうか、女性の性の表現について今後も広がりうる内容のように感じられた。
 冒頭でも触れたように今回の研究会はいつもとは異なる形態であったが、この次の帆苅基生氏の発表を含めとても充実していたと感じる。安吾の表現方法の模索について仔細に検討するその一方で、安吾の生きた時代を他の作家達から捉えることにより、浮かび上がる点も多くあった。この度の研究会は多角的に安吾を考える場となったと同時に幅広く討議する機会となっていたように思う。


印象記(後半)
吉田 恵理
 帆苅基生氏による研究発表「石川淳「修羅」論」は、坂口安吾との直接の影響関係を論じるものではないとしつつも、「紫苑物語」「八幡縁起」(質疑の中で触れられた『新釈古事記』)を周辺に置き、安吾の〈農民〉や「飛騨高山の抹殺」を引き合いに、両者の〈歴史〉観が鋭く切り結ぶさまを照らし出した興味深い内容であった。また、発表は「修羅」という一篇を読み解くことに重点を置くものであったが、確かにテクストの持つ雄弁さに会場も引き込まれていくような印象があった。
 帆苅氏は、〈正史〉によって排除されてきた古市一族と、虐げられた憤怒を共有し一族の頭となる胡摩――この女性像の造型が類型的でないことも指摘された――が、公卿の庫(桃華文庫)をやぶる展開を「〈外部〉の逆襲」と解釈することを柱として、そこに石川の〈史〉観、すなわち「〈野乗〉という〈正史〉からこぼれ落ちる〈歴史〉への眼差し」をみることが出来るのだとした。そこに、同時代的にみて歴史学の転換期であったことや、中世史再評価の機運が高まっていたこと、さらにそれらとは別の次元で、石川に先行して〈歴史〉が編纂されたものであると考えていた坂口安吾という一人の作家への石川のある「思い」があったことを重ねる。そして終わりに、「修羅」から晩年の「狂風記」までを貫く「〈史〉を自ら生きる」という石川の強固な意志を汲み取ってみせた。
 共同討議の際に会場から、胡摩の出生や一休禅師の超越的な立ち位置、古市一族の共同体内部の性質についての指摘があったように、「修羅」の構造はそこに登場するあらゆる層の者たちが形作る複雑な関係図と密接な関わりがあるように思われる。たとえば「世の中の仕掛けの底」からのしあがってきた足軽ども。庫やぶりから将軍討ちへと向かう胡摩のストーリーの一方で、胡摩が捨てた母のかたみの懐剣が、胡摩を恋い慕う足軽の大九郎から彦六と袖という男女二人の手へと渡っていく「懐剣のめぐって行く末」の暗示をどう考えるか。この足軽たちこそ、安吾の「農民たちの狡猾さ」に近いものを持つようにも思われるのだが、それは石川のいう〈野乗〉ではないのだろうか。
 石川にとっての敗戦が「亡国の経験」すなわち「千載一遇のチャンス」であり、一度ならず二度三度と滅びる必要がある――絶望的にあきらめない――というスタンスが、「のぞみの絶えた所に生きることを始め」る胡摩に重なるという指摘はもちろん説得力を持っている。しかし、「修羅」という小説によって生き直される戦乱の世が、〈修羅〉の道を行く胡摩と〈くそ菩薩〉と呼ばれる一休の間に、様々な〈人間〉の層とその行き道を挟むようにして描かれていることに注目すべきではないだろうか。「修羅」の複雑な構造を解き明かすことで、石川淳の〈野乗〉や〈民衆〉の内実が明らかにされることを期待したい。
 共同討議は発表者それぞれへの質問や意見が提出される形となり、発表者三名の問題意識が絡み合って議論がなされる、という場面は見られなかったが、会場との応答から自ずと共通する問題として浮上してきたのは、私たち自身の研究者としての〈歴史〉認識が問われねばならない、ということだったように思う。帆苅氏による石川と安吾の〈歴史〉観の問題、萬処氏による戦時下の女流作家としての矢田津世子再評価はもちろんのこと、片岡氏による安吾の新しい〈女性像〉造型を見ようとする姿勢もまた、一体それがどのように新しいのか、どのような価値を持っているのか、それを判断する材料に何を選択するのか――そこに自身の〈歴史〉認識は否応なく露呈する。分析の対象とする言説に反映されている枠組みと、それを超え出ていこうとする意志とを見抜けるかは、私たち自身が既に絡め取られている枠組みにどれだけ自覚的になれるかに重なるのだということを改めて痛感した。

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第23回研究集会


第二三回研究集会印象記
福岡 弘彬
 第二三回の研究集会は、大澤信亮氏の講演、塚本飛鳥氏、若松伸哉氏の研究発表、三者を中心とする共同討議の形式で行われた。
 大澤信亮氏「イノチガケの不良少年キリスト」は非常に刺激的な講演であった。氏は坂口安吾の文学に「不徹底」を見る。安吾は島原の乱や天草四郎の小説化を試みながら、結局書ききることはできなかった。そこに実は、安吾の本質的な躓き、「不徹底」があるのに、これに対する批判的検討がないまま、「堕落論」などを用いて安吾の姿勢を称揚することは、ただの思考停止ではないのか。氏のこの提言は、「いま」における安吾の新たな(不)可能性を問うことへと、参加者を誘うものであった。
 書簡などを踏まえ、安吾の抱える「死の欲動」を指摘する氏は、自分が何故死のうとする、死を賭してでも何かを遂げようとする天草四郎のような人物にひきつけられるのかを、安吾はもっと内在的に追求するべきであったとする。しかし安吾は、そのような方途を放棄し、推理小説や歴史探偵の方向へ逸れてしまう。それは、学問的に対象を把持する「大人」の態度を取りつつ、人の死を描くことで、「死の欲動」を言語を通して社会的に分配、交換していく回路への逢着である。だが安吾は「大人」の位置に立つ前に、天草四郎=「少年」にもっと切迫すべきだったはずであり、そこにこそ安吾の文学の可能性があったのではないか。
 さらに、氏はもう「堕落せよ」は止めるべきと提言する。社会的倫理性が剥奪された「堕ち」た場所から、倫理を考察しようとする潮流が、現代におけるゲーム批評などに見られる。しかし彼らは、自らの暴力性を顧みないまま、他者の暴力性は拒否することで、自己正当化することに陥っている。そのような場所には、倫理はあり得ないのではないか。
 氏の以上の問題提起は、既存の安吾像解体へとつながるものであるとともに、安吾を「大人」的に、つまり学問的に裁断しようとする研究者に向けられた、痛烈な批判でもあった。この講演を聞き、今一度自らの研究を問い直さなければ、と強く迫られたことを記しておきたい。
 ただし、若干の疑問もある。それは、サブカルチャー批評に対して提示された、氏の論理である。「弱さ」に留まり、そこに牙城を築く現代批評のモードに対しての氏の憤りには、共感できるものがある。しかし氏の論理は、制度や倫理から不可避にこぼれ落ちる生の領域、そのような「弱さ」、私たちの「無能」さを、取りこぼしてしまうのではないか。氏の批評が求めているのは、リミットを設けずに思考し続ける、「強い」主体であるように感じるが、そのような主体であり続けることが、人はどこまで可能であるのだろうか。
 安吾の「堕落論」には、人間の「堕ちきれない」こと=「弱さ」も確かに書き込まれている。「堕落」=道徳を否定しながら、同時に人間の「弱さ」を肯定し、「死の欲動」をたとえ転化したとしても、生涯を通して「書き」続けた安吾の営為を、私はやはり評価したいと感じた。
 塚本飛鳥氏「「閑山」――『一夜船』と新潟民話から」は、「閑山」に新潟、とりわけ佐渡の民話が取り込まれていることを指摘しながら、『一夜船』との比較から「説話体」という方法の摂取を見出し、両要素を「ふるさと」新潟を語ろうとした安吾の意識へと還元するものであった。従来看過されていた新潟民話と「閑山」との関連に注目されたのは興味深い。ただし、氏が提示した幾つかの民話は、より「閑山」に近似する同型類話の存在や、他の民話の流入をも予感させるものであった。今後、さらなる調査によって、様々なプレテクストと作品との関係性を考察されることが期待される。「旅と伝説」が資料に挙げられていたが、個人的には、同時代の民俗学との関連も気になるところであった。
 また、「閑山」創作において安吾の念頭には新潟があった、という結論には、強い疑問を感じた。論を作家に安易に回収する前に、作品自体の考察や、「説話体」という概念の再検討がなされるべきだと思われた。
 若松伸哉氏「同時代から見る〈愛〉と〈孤独〉――坂口安吾「紫大納言」を中心として」は、これまで『吹雪物語』や「文学のふるさと」との関連の中でしばしば語られてきた「紫大納言」を、同時代言説の中に再配置することで、作品の時代的な特異性を考察するものであった。国粋主義の下、文学の領域に「再生」や「健全」という言葉、あるいは古典作品が呼び込まれる中、「紫大納言」は他の文学言説とは異質な作品となっている、という指摘は明快であった。しかし惜しむらくは、異質さの意味、意義の検討がなされていなかったことである。作品自体の踏み込んだ分析も、伺いたいところであった。
 また、同時代的な「革新」や「再生」とは異なる論理を体現していた、太宰治との共通性/差異についても、伺いたいと思った。戦時下における安吾や太宰の営為と、時局的な文学とのズレは、戦後「無頼派」という枠組みが形成される要因となっているはずである。氏の研究は、「無頼派」の歴史性を再検討する射程を持つものであろうと思われた。
 さて、今回のテーマは「いま、安吾を読む」。「いま」という言葉から、3.11への言及が何かしらあるかと予想されたが、そのような方向へ議論が進むことはなかった。しかし異なる角度から、特に大澤氏の挑発的な講演により、「いま、安吾をよむ」ことについて大いに示唆的な会であったと思う。安吾の限界性を見ながら、その先にはどのような可能性があり得たかを、考える。それも、研究の領域で。その具体的な実践方法を問いつつ、「安吾を読」み「いま」何をすべきか思考せよ、と強く衝迫する研究集会であった。


坂口安吾研究会第二三回研究集会(二〇一一・九・二四)印象記
時野谷 ゆり
 二〇一一年三月二六日に早稲田大学での開催が予定されていた坂口安吾研究会第二二回研究集会は、東日本大震災発生後の混乱の中でやむなく中止となり、同年九月二四日に、第二三回研究集会が「いま、安吾を読む」というテーマの下で改めて開催された。研究会は、大澤信亮氏の講演、塚本飛鳥氏、若松伸哉氏の研究発表、三者による共同討議の形で進められた。
 まず、大澤信亮氏の「イノチガケの不良少年キリスト」は、大澤氏が安吾を愛読しながらもこれまで批評の対象としてこなかった理由として、安吾は〈考える〉ことに不徹底だったのではないかという問題提起から始まり、「イノチガケ」から「不良少年とキリスト」までの戦中・戦後のキリシタン物、キリストに関する言説を射程とし、自己に内在する暴力や攻撃性への対峙、死の欲動から歴史小説の創作への展開、自らの内部に〈道徳〉を作り上げることの意味を問うものであった。「島原の乱」「天草四郎」の未完について、安吾は天草四郎という〈少年〉に社会的背景や政治的観点という〈大人〉の分別から迫ったが、四郎の理念を〈考える〉ことを放棄したのだとする大澤氏の指摘は、「生きよ、堕ちよ」という安吾の主張を肯定した時点で時に思考停止に陥ってしまう研究者、批評家の態度を問い直す強度を持っていた。講演は、堕ちることが必然ならば、その地点からどのように生きるかという〈道徳〉の結晶化のプロセス、自分の内部に〈キリスト〉を生むこととは何かという問題意識へと接続させる形で終えられたが、どのようにそこにアプローチするのかを含め、さらなる議論を聞いてみたいと思われた。質疑応答では、特に、安吾と〈大人〉・〈子供〉・〈少年〉という問題をめぐって活発な討議がなされた。
 次に、塚本飛鳥氏の「坂口安吾「閑山」論――『一夜船』と新潟民話から」は、「閑山」の典拠として新潟、特に佐渡の民話を指摘し、「閑山」の説話体に故郷の新潟について語ろうとした安吾の意志を見出そうとする発表であった。前半部での、「閑山」の主人公団九郎狸には佐渡の民話の「団九郎狐」「禅達むじな」との共通点が見られるという指摘は、主人公の造型を考える上で示唆的であった。後半部では、「閑山」の執筆時に安吾は説話体に行き着いており、その実践として民話が引用され、「佐渡」の民話から「越後」の物語への改変には、故郷について語ろうとする安吾の意識が見られると論じられた。しかしながら、その論証には、説話体の定義、安吾の他の説話体作品との比較、故郷について語ることの意味、「閑山」の本文に則した語りの分析が必要ではなかっただろうか。質疑応答では、主人公を「人語を解する狸」に設定した理由、新潟市出身の安吾が佐渡の民話を知り得た経路、「閑山」の典拠とされる『一夜船』と「閑山」の本文の比較検討の必要性という点が問われた。今後、「閑山」の典拠とされる民話の特定から、「閑山」の作品内部の分析へと進み、新たな解釈が提示されることが期待された。
 若松伸哉氏の「同時代から見る〈愛〉と〈孤独〉――坂口安吾「紫大納言」を中心として」は、これまでに『吹雪物語』や「文学のふるさと」との関連から評価されてきた「紫大納言」について、一九三九年前後の〈再生〉・〈結婚〉・〈建設〉・〈健康〉・〈愛情〉をめぐる言説、与謝野源氏・谷崎源氏の刊行という古典復興の潮流を対置し、「紫大納言」の同時代との接点を探ることで、戦時下での安吾の文学的営為の位置を捉えようとする試みであった。「紫大納言」が太宰治「富嶽百景」とともに『文体』一九三九年二月号に掲載されたという指摘をはじめ、同時代の言説をカテゴライズした明快な見取り図が用意され、「紫大納言」の言説が、それらの言説、及び古典復興との連関から分析された。しかし、そこからは安吾の言説の特異性は明確には見えてこないという点が惜しまれた。むしろ、「紫大納言」の作品内部の具体的分析を聞いてみたかった。質疑応答では、『吹雪物語』から「紫大納言」への創作上の展開、「紫大納言」の結末部の解釈、改稿の問題、「閑山」とも共通する説話体の定義という重要な論点をめぐって議論が交わされた。
 今回の研究会において、安吾とその作品に対する批評的なアプローチと実証的なアプローチとがぶつかり合い、参加者が自らのスタンスを確認しながら、活発な議論が交わされたことは収穫であった。3・11以後、文学の役割と可能性が今一度問い直されている中で、本研究集会が外に開かれた、建設的な議論の場であり続けること、そのために何をすべきかを考えさせられた一日であった。

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第21回研究集会


第二一回研究集会印象記
原 卓史
第二一回目の研究集会(九月一八日開催)は、はじめて新潟で行われた。若月忠信氏、帆苅隆氏のお二方の研究発表と、坂口綱男氏の基調講演という形式で行われた。
若月忠信氏「新潟の資料でみる坂口安吾」は、坂口安吾蔵書のことを枕にして、安吾の父坂口仁一郎が暴漢に襲われたことについて、新潟中学校時代の安吾の写真について、「花妖」の連載中止の原因について、全集未収録資料のことなど、話は多岐にわたった。一九二〇(大正九)年八月九日付けの『新潟新聞』に、「坂口氏を狙へる暴君」と題した記事が掲載されたことや、二〇〇〇(平成一二)年九月二二日付、『新潟日報』に坂口安吾の未公開書簡が若月氏によって紹介されたことなどなど、未見の資料も多く興味深いものであった。また、坂口安吾「天皇はホウキである」の中で、「明治神宮が焼けると、一週間後にはもう新しい神殿がつくられたという」と指摘しているが、この問題は井上ひさし「手鎖心中」に精しく記されているという指摘も面白く聞くことができた。ただ、会場からは氏の話はこれまでに新潟では何度も聞かされたことがあるとの指摘も出された。研究発表という場である以上、新潟在住の人にとっても他の地域在住の人にとっても未発表のことについて話すべきだったのではあるまいか。新潟では比較的知られている事柄について東京在住の私には未知の事柄も多かったということは、私の調査のやり方にも問題があるのだろうが、地域を問わず情報を共有していく術をどのように確立していくかということも課題であると感じさせられた。
帆苅隆氏「真実のクラクラ日記―新宿のバー・チトセのマダムから聞いた話」は、安吾と三千代が新宿のバー・チトセで出会った経緯について、坂口三千代『クラクラ日記』とは異なる内容を紹介していくというものであった。谷丹三と房子の夫妻の家系図と、梶家(三千代の旧姓)の家系図は詳細を極め、安吾や三千代を取り巻く人間関係を知るのにとても役立つ資料だといえるだろう。ただ、惜しむらくは、年譜の作成に終始していたことだ。問題にすべきは、年譜を作成することによって、坂口安吾文学や谷丹三文学の読解にどのように役立つかを指摘することだったのではあるまいか。二つの家の家系図が、二人の作家の新たな読みの可能性を秘めていると思われるだけに、作品分析へと結びつかない研究のあり様に、もどかしさを感じずにはいられなかった。
坂口綱男氏の基調講演「安吾のいる風景・その後」は、坂口家所蔵の本のこと、寄贈した資料のこと、新潟の砂丘の松のこと、安吾風の館のこと、坂口家ではみかた商店から新巻鮭を注文していたこと、綱男さんと奥様の馴れ初めなど、多くの出来事に触れられた。とりわけ興味深かったのは、新潟市西大畑には迷路のように路地があることをご自分で撮られた写真を使って紹介されたことだった。私自身、新潟へ出かけたときには、必ず西大畑を訪れることにしているが、通ったことのない路地も多かった。近隣のご迷惑にならないよう、歩いてみたいという思いにかられた。また、蔵書についても興味深い話を聞くことができた。坂口家には、様々な本が贈られてきていて、それらを整理するために三年に一度くらいの割合で、本を古本屋に売っていたのだという。また、蔵書の一部は桐生市立図書館に、安吾が綱男名義で本を寄贈していた―寄贈資料は廃棄されてしまっており、何が収められたのか現在では不明―のだという。坂口家所蔵の図書・雑誌の少なさがこれらのエピソードから説明が付く。どのような資料を所蔵していたのか不明になったことが多く、永遠に詳らかにすることができなくなってしまった。そのことが残念でならない。
さて、翌一九日は、新津美術館所蔵の坂口安吾蔵書見学を開催した。坂口安吾が書き入れを行った(と思われる)資料の数十点を、閲覧することができた。「イノチガケ」の典拠となったレオン・パジェス『日本切支丹宗門史』や、「道鏡」の典拠となった久米邦武『奈良朝史』、松木幹雄『弓削道鏡伝』などなど……。筆跡は安吾のものなのか、それとも他の人によって書かれたものなのか。安吾が創作の過程でどのような文献を読んだのか。何を感じて何を書きとめたのか。書きとめられた文字が作品にどのように活かされたのか。今後、研究にいかに活かすことができるのか。いろいろなことに思いをめぐらせた一日となった。これから考えていかなければならない課題は多いことを改めて実感した。

【附記】
今回の新潟での研究会開催には、多くの方々のご協力を賜りました。お陰さまで、とても実りのある研究集会と蔵書見学を開催することができました。研究集会の会場(新潟大学駅南キャンパス「ときめいと」)をご提供くださった新潟大学、会場申請と研究会当日にお力添えくださった新潟大学人文学部の先田進氏、研究会開催や蔵書の見学にご尽力くださった新潟市文化政策課の渡辺稔氏、山口譲氏、池田洋介氏、そして蔵書の解説をしてくださった新潟市芸術文化振興財団の学芸員の岩田多佳子氏に厚く御礼申し上げます。


第二一回研究集会印象記
塚本 飛鳥
新潟、と聞くとつい安吾が描いた新潟が浮かんでくる。
安吾は度々新潟を描いてきた。それは新潟について説いたものもあれば、 幼少期の記憶を語るものもあり、小説の舞台とするものもある。中でも学校を休まざるを得なくなって見ていた海と空と風は何度も描かれているが、そこから呼び起こされる思い出は気候と共に少し暗くそして切ない。しかしただ暗くただ切ないだけでなく、同時に温かなまなざしがあるようにも思う。二〇一〇年九月一八日、新潟大学駅南キャンパス「ときめいと」にて第二一回研究集会は開催された。坂口安吾研究会が安吾のふるさと・新潟で開かれるのは、はじめてのことだそうである。
「坂口安吾の蔵書目録をめぐって」という今研究集会のテーマはきわめて安吾研究そのものに近いものであるが、研究者以外の方々も多数参加され、安吾に対する関心の高さが伺えた。研究発表は若月忠信氏による「新潟の資料でみる坂口安吾」の発表からはじまり、氏は新潟以外では見ることの難しい資料の紹介、そして『坂口安吾蔵書目録』(新津市文化振興財団、平成一〇年八月)の紹介をすると共に、そこから安吾自身を照らし出された。少年であった安吾が影響を受けたであろう出来事に関する「新潟新聞」の記事、「新潟日報」で氏が連載されていた「新潟名作慕情」で紹介された未公開書簡から知られる安吾と周囲の人々との温かな交流等多くの紹介と指摘がなされたが、中でも氏が調査の際に聴いたという印象的な話があった。競輪で危うい判定があると「安吾に言うぞ!」というコールが上がった、というものである。当時の人々が抱いたイメージが表れるエピソードであると同時に、当時においても安吾は民衆を力強く引っ張っていく作家であったことをあらためて感じる話であった。
続いての研究発表、帆苅隆氏による「真実のクラクラ日記――新宿の バー・チトセのマダムから聞いた話」は、三千代の友人であり、安吾と三千代を引き合わせた人物でもある新宿のバー・チトセのマダムに対して行われた丹念な聞き取り調査に基づいた発表であった。バー・チトセを中心として、お店の歴史、千歳楼やクラクラとの関係、周辺の人間関係、お店での安吾の様子等、とても広範な繋がりが解き明かされてまとめられた結果、作家として見る位置とはまた別の視点から、その姿を覗くことができたように考える。中には今研究集会の講演者である綱男氏に対する安吾のまなざしが浮かび上がるような話もあった。
そして坂口綱男氏による「安吾のいる風景・その後」と題された講演が行われた。「安吾のいる風景」は、安吾が訪れたであろう場所をモチーフとした氏のフォトエッセイの連載及びそれらがまとめられた氏の著書であるが、本講演はその著作のように、育ちかつ描いた新潟の風景をおさめた写真を見ながら安吾を知り探るというものであった。ところどころに笑いどころを含ませながらスライドに映される景色は、現在の景色でありながら安吾を思い浮かばせた。写真が現在と作品をそして安吾をつなぐと同時に、そこに写った碑などからは人々がどのように作品を受け取り、どのように安吾と新潟を見てきたのかを伺い知ることができた。
作品が書かれてから既に五〇年以上が経ち、街は大きく変化した。それにもかかわらず安吾の描いた新潟が消えてしまったという印象は受けない。 新潟への印象は安吾自身の記憶や経験が大きく影響しているのだと考えていたが、それだけではなく、さらに根元的なところから新潟を見つめていたのかもしれない。だからこそ今でも新潟を多くの人が安吾の場として認識し、時にはその風景によって作品をそして安吾を思い浮かべるのであろう。今研究集会は安吾自身を様々な方向から照らし出すものであった。また、新潟という場所すらも別の一方から照らし出したと言えるであろう。 見たであろうそして描いたであろう風景の名残に、安吾の気配のようなものを見たような気がした。

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第20回研究集会


第20回研究集会印象記
大原 祐治
第20回となる今回の研究集会は、いつものように外部からのゲストを招くことをせず、二本の研究発表の後、自由討議を行うという形式で行われた。
一人目の発表者、原卓史氏による「坂口安吾「家康」論―人物像と成立過程をめぐって」は、1947年発表の歴史小説「家康」の典拠を丹念に探りつつ、この作品の特性を炙り出そうとする試みだった。徳富蘇峰『近世日本国民史』、山路愛山『徳川家康』といったテクストのみならず、1946年までに刊行されていた家康関係の史書をあまねく渉猟して、安吾のテクストとの対比を試みたという原氏によれば、安吾の描く家康の人物像は、プレテクストから大きく逸脱することはなく、その意味では斬新な家康像を提示するものではない。むしろ安吾のテクストにおいて特徴的なのは、適宜物語の時間を錯綜させ、しばしば反復するというプロット上の操作と、プレテクストに依拠した記述を伝聞体で提示しながら語り手がそれを批評/批判するというスタイルの導入であるという。原氏は、こうした方法によって「合戦」と「平和」との対照が顕在化されたこのテクストは、「平和」を求める敗戦後の日本の状況とも合致しており、だからこそ戦国時代を扱いながらもGHQの検閲をパスすることも出来たのだと推論する。その後の討議では、こうしたテクストの〈現代〉性を問うのであれば、そもそもこのテクストは一般的な意味での「歴史小説」なのか、というところから考察が必要ではないか、との声も聞かれたが、実際たしかに、家康は「議会政治の政治家としては保守党の領袖などにまア似合う人だ。そして新聞から優柔不断だの新味がないだのと年中コッピドクたたかれている人だ」などといった叙述は、同時代(=敗戦後)の政治状況と重ねてアレゴリカルに読むと面白いのかもしれない。その意味では、典拠確認の一方で、このテクストを同時代の言説状況・政治状況の中に差し戻して読む作業も求められるだろう。
二人目の発表者、福岡弘彬氏による「デカダンス作家・坂口安吾―「デカダン文学論」を中心に」もまた、戦後のメディアの中に散見される表象としての「デカダンス」について同時代資料を丹念に集めて読み込むというストイックな作業に支えられた内容だった。福岡氏によれば、安吾の「デカダン文学論」において実は「デカダンス」という語は一度しか用いられていない。むしろそこで繰り返し用いられるのは「堕落」という言葉であり、それは数ヶ月前に発表され大きな反響を呼んだ「堕落論」の内容を反復している。そして、安吾が論じるデカダンス/堕落とは、同時代表象としての「デカダンス」ではなく〈「型」の否定〉という態度に他ならないのだ、と福岡氏は強調する。興味深かったのは、こうした安吾の所説が実は特異なものではなく、安吾が批判的に言及する平野謙による藤村「新生」論中の叙述、あるいは安吾の「堕落論」以降のスタンスには批判的だった小田切秀雄の言葉の中にも共有されている理念だった、という指摘である。福岡氏の発表は、ここから再度翻って同時代における安吾の独自性を探る考察に向かい、「書くことによって、私を見出す」(『いづこへ』あとがき)一連の自伝的作品を「デカダン文学論」の実践と捉える方向へと進んだのだが、個人的にはむしろ、同時代のメディアの中で当人たちの意識とは異なる水準で出現し、見逃されてしまうような共軛性の方に興味をかき立てられた。安吾は「堕落」を繰り返し語ってみせる自らのパフォーマンスがスキャンダラスな表象として流通する事態を積極的に引き受けた側面もある。メディアを選ばずに書き飛ばす1947年前後の安吾のパフォーマンスを、メディアの中での誤読と誤配に満ちた応答関係を通じて総体的に捉える研究の可能性と必要性について、改め て考えさせられた。
ゲストのいない研究集会は集客を見込めず盛り上がらない、という考え方もあるかもしれないが、実際に今回の会に参加してみて思うのは、これはこれでよいのではないか、ということである。実際、発表後の自由討議では時間いっぱいまで、決して多くはなかった参加者の質問・意見は止むことがなく、活気は十分だったように思う。ただ、せっかくこうした議論の場を設けるのであれば、ある程度のテーマ設定を行い、会員に対しても早めに周知するといったことが出来たならば、なおよかったのではないか、とも思う。研究集会も20回という区切りを迎えた。そろそろ、研究会の黎明期に尽力された方々に再登場していただくのもよいのではないかと、個人的には思う。


第20回研究集会印象記
冨岡 瑞枝
既に満開の早稲田大学戸山キャンパスの桜をよそに、冷え込む小さな教室で坂口安吾研究会・第20回研究集会の発表・討議はじっくりと行われた。
原卓史氏発表の、「家康」における安吾の独創性をどこにどう見出せばよいのかという問いは、討議を経てさらに深まるところとなった。(家康物・戦国物は、エンターテインメントである、単なるモティーフである、書かざるを得ない素材ではあったが書きたいわけではなかった等の意見が会場から出された。)
第二次世界大戦後は家康物が長く書かれない時代があったこと、しかし家康物は『三河物語』以降繰り返し語られるエピソードであるということ、またGHQの検閲との攻防などにも触れられた。戦国物から「家康」だけを取り出して考察することには会場から異論も聞かれたが、発表当時の時代を覆う空気と安吾作品の摩擦具合を測るものさしとしては有用なのではないかと考えさせられた。氏は、発表資料以外にも、雑誌を「すべて見た」けれども載っていなかった、検索にヒットした69件を「すべて見た」、と言う。その言葉を聞くにつけ、伺えばもっとたくさんの情報をよどみなくお示しいただけるのではないかとわくわくした。「蓋然性の高さ」という確度で進められたその発表は、膨大かつ仔細な調査に拠るものであった。「比較すればするほど、どこかの資料に回収されていく」という氏の言葉が、その証左となろう。
福岡弘彬氏の発表は、氏の自由討議の際の発言がまさに実践されているように思われた。それは、「デカダンスを謳い過ぎてしまって安吾の良いものが見えなくなってしまうのは良くない。デカダンスによって独自性というものが見えれば──」というものである。このスタンスが、「固着しない」デカダンスをめぐる氏の論をふんわりと、しかし安全に展開させたのではないか。論が進むにつれ、「decadence」の原義と、安吾が「デカダン文学論」において語る「デカダンス」の意味の差異を氏自身がどうとらえているのかに、もう一歩踏み込みたく感じた。しかし、この、明確でない裂け具合あるいはのりしろ具合をこそ、氏は論じようと試みたのではないだろうか。
会場から「労作」という感嘆の声が上がったのが、資料として配られた、安吾の著作とデカダンス関連文献の一覧表である。デカダンス関連文献については、その内容が安吾に関連するものに黒丸がつけられており、視覚的・感覚的にもとらえやすいものとなっている。この丁寧な資料と、氏の手の中にあった安吾全集に几帳面に貼られたたくさんの付箋を見比べ、氏の研究に対する熱意とそれを支える地道な作業に、つい背筋を伸ばした。
参加者15名が醸成する、濃密でありながらも力みのない空気。その中で交わされた討議は、建設的で真摯なものであった。
凋落していく美しさの推移そのものをとらえようとするのが、そしてその誠実さが安吾作品なのだろうかなどと思いをめぐらせつつ、花の凍える会場を後にした。

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第19回研究集会


第19回研究集会印象記
大江 僚太
坂口安吾研究会・ 第19回研究集会は2009年10月3日に法政大学で開催された。川村湊氏の挨拶で始まった研究会は、前田塁氏の基調講演「安吾と速度」をうけての共同討議へと続いた。
基調講演「安吾と速度」では、文芸批評家である前田氏による現代文学の今日的な状況にたいする分析から始まって、そこから抽出された「速度」というキーワードをもとに、安吾が文学と速度の問題をどのように捉えていたのか、安吾の「文字と速力と文学」を用いて氏の考えが展開され、最終的には今後の「文学の行き先」についての氏の推論が示された。
氏ははじめにグーグル・システムにおける情報の取捨選択の「合理化・効率化」について言及し、資本の情報化とその加速、ニコニコ動画などにおけるウェブ環境の擬似的な同時性など、多角的に現在のメディア状況や産業構造について語り、そのような状況の下で、文学という「遅い」メディアが自覚的に生き残っていくにはどうしたらよいのか、という問いを前提として提起した。そして「文字と速力と文学」において安吾が記述言語(筆記言語)の「遅さ」に対して不満を持っている点、また記述言語に対して思考言語・観念の優位を前提としていることを指して、今日の情報環境においては実は、すでにいくつもの記述された文脈が無数にあって、我々はそのなかでしか文学的なもの・思考を生成できなくなっている状況があること、まさに記述言語が思考言語の速度を超える環境が出現しているという現状を示した。
その上で文学全体の問題としては、氏はそうした情報環境の変化によって文学自体が形状の変化を余儀なくされるという点を強調し、村上春樹以降、口述・語りの面白さへと偏向してきた日本の文学について、@読者や環境に「身体」を譲渡していく形(テキストそのものの強度は最低限に落としながら、読者が身体的に文脈をカスタマイズできるような形)、A原理的なもの(宗教・戦争)へと回帰する形、Bキャッチコピーやキャッチフレーズのような即時的で状況に依存するような形をとることで生き残っていくのではないかという独自の「文学の行き先」を示して講演を締めくくった。
つづく共同討議では、先の基調講演の終わりに示された「文学の行き先」について、参加者から盛んに質問や意見が投じられたが、なかでも、パネラーの川村湊氏が、江戸期の文学が口述の再現へと向かっていき、会話や日常の描写に対象を移行させていった結果として、その歴史を閉じることになったという点を指摘したうえで、日本の現代文学もいったん終わるのではないかと発言したことは非常に印象的だった。
また、安吾が独自の速記用文字を開発していたという指摘が参加者からあった際に、前田氏が安吾においてはその「速度化」が成就せず失敗に終わったことが重要なのではと答えたのも興味深かった。
私は坂口安吾について専門的な知識を持っていないが、文学に対して自分の持っている問題意識、今日の加速度的な情報環境のなかで、古典ではない(価値が自明視されていない)新しい文学がそれでも生成されるのであれば、それはいかにして可能か、という問題意識を、前田氏の推論や川村氏の応答、また参加者の白熱した議論によっておおいに刺激してもらえたと思う。非常に勉強になった研究会だった。


安吾と速度
葉名尻 竜一
今回は、評論家の前田塁(市川真人)さんを迎えての共同討議となった。安吾のエッセイ「文字と速力と文学」が扱われることは珍しい。前田氏はここから〈思考〉と〈筆記ツール〉におけるタイムラグの問題を抽出し、インターネットが普及した現代は、かつて記述する者たちが抱えた苛立ち(アイデアが消える前に書き留めたい!)を逆転さ せ る環境を用 意 したと語る。
確かに「速度」は「近代性」と密接な繋がりがある。小説中に何度となく汽車を登場させた漱石。「速度」そのものを文体で抱えようとした新感覚派。大きく言えば「速度」とは、自然的な条件に拘束された前近代的な個人の「今、ここ」を解放することで、近代的な主体性を成立させた要因の一つであったろう。さらにインターネットは、誰もが「いつでも、どこでも」の条件のもと、超「速度」によって時間と空間を均質化した。
前田氏が言うように、そのウェブ上で使用される「リンク」機能は、こちらが書く前に書かれていたページと 関係をとり結ぶことで、「言葉(書いた)」と「言葉(書かれていた)」が、自分の〈思考〉よりも先に出会ってしまう現象を生んだ。
そのようにして書かれた「ハイパーテキスト」(テッド・ネルソンの造語)は、読者に、書き手が提供した論理的な因果関係や階層構造とは別の仕方でテキストを組成することを可能にする(例えば、「リンク」を辿っていく)。つまり、文章を読むことが、始めから終わりに向かっての行為ではなくなったと言える。だが、これは〈思考〉そのものに似ていないだろうか。
前田氏の、安吾のエッセイへの着目は、〈思考〉の 秩序と〈筆記〉の秩序は別物だといった点にあったのではないかと、当日、司会をしていた者として改めて思う。
〈思考〉は決して連続ではない。様々なアイデアが絡み合った構造(「リンク」)を持つ。そのアイデアを序列化し連続性を持たせること、始めから終わりへと向かわせることが〈筆記〉ならば、〈思考〉と〈筆記ツール〉におけるタイムラグとは、 構造自体の変化(生成)のことであり、脳に直接プラグが突っ込めるようになるかもしれない未来にでも起こり得る。我々は、文章が持つ連続性のようには考えてはいないのだ。
そうであるならば、パネリストの原氏が『狂人遺書』に沿いながら問うた「速度」と「効率」の差異。川村氏の「安吾はテキストではない」との指摘は、安吾の「近代性」批判の側面として照らし出されてこよう。
現在、ネット空間は 「ブログ」「SNS」と来て、「ツイッター」が席巻している。「速度」によって「今・ここ」から自由になったはずの近代的な個人が、@マークによってテキスト上に「アドレス(ここ)」を残し、140字のつぶやきによって、タイムラインという、流れる「現在(今)」を構成する。「速度」がもたらしたものは、自然的な条件であった「今・ここ」の拘束から、電脳的な条件の「今・ここ」の拘束(強迫的な関心)への変化だけなのかもしれないと思えてくる。
安吾のテクストに読まなければならないのは、変化をしていそうで変化をしていない、この透視ではないのだろうか。

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第18回研究集会


第18回研究集会印象記
松村 良
 坂口安吾研究会・第18回研究集会は2009年3月21日(日)に中央大学で開催された。参加者は22名。まず加藤達彦氏の報告、次に高橋世織氏の基調講演があり、休憩を挟んで、山根龍一氏の司会による共同討議が行われた。
 加藤氏の報告「坂口安吾と殺風景(ピクチャレスク)―「白痴」をめぐる迷走―」は、昭和15年の「イノチガケ」と昭和21年の「白痴」をつなげて、そこに安吾の美意識(=文学上の方向性)に共通するものがあることを、「ピクチャレスク」という概念をヒントに考えてみようという試みであった。「白痴」は、「傑作/駄作」の反転する評価にその特徴(凡庸さにとらわれる「あやうさ」)があり、その評価の「迷走」を生み出している根源に「ピクチャレスク」の手法があるのだという。「ピクチャレスク」は、「石の思ひ」における「私の好きな景色」(荒涼とした海と空と風)や、「日本文化私観」における「ずぬけて美しい」「ドライアイスの工場」などにもつながるものであり、永山時英『増訂切支丹資料集』(大15・1、藤木博英社)の図版に示されているような「そっけなさの描写」を手法化したものでもある。このような「ピクチャレスク」の手法が、「白痴」の冒頭における断片的世界の描写や、「白痴の女」や、テクストの「アナクロ的異空間」を生み出しているのだと加藤氏は主張する。
 ヨーロッパの歴史的概念としての「ピクチャレスク」を、安吾の美意識にそのまま援用できるかどうかという疑問や、キリシタンの処刑の場面をいかに伝えるかという「伝達手段=メディア」の問題において、絵画/文学の違いはどうなるのかという疑問は残ったが、「イノチガケ」と「白痴」を敢えて接続しようとする加藤氏の問題意識は面白いし、それによって新たに見えてくる部分(葉名尻竜一氏が指摘したような「安吾はなぜ詩をやめたのか?」という疑問や、日本のモダニズム文学の中の安吾の位置づけの問題)もあると思う。
 高橋氏の講演「気候変動の世紀と安吾の言語感覚」は、地球温暖化の話から始まり、「空気」のごとく話題は縦横に変化していった。印象に残った話としては、普通の小説が「線条的」であるのに対し、初期安吾作品(「風博士」を例に挙げた)は空気のような「散乱系」であり、詩なのか散文なのかも定かではないということや、「風博士」の「諸君」という呼びかけの繰り返しは「ショックン!」というクシャミの音に聞こえることや、風博士=KAZE WA KAZE(カゼはカゼ)とも読めることなど、高橋氏ならではの「見立て」で楽しませてくれた。氏によれば安吾は「空気」が見えすぎてしまっているのだという。また、他の文学者と比べて「汚染度」が低いとも。環境問題をベースとした安吾の「読み解き」に、刺激を受けた参加者も多かったはずだ。
 共同討議では、司会の山根氏に「ピクチャレスク」と「文体」(物語言説)との関係についての質問があり、加藤氏はそれを(内容でもあり文体でもある)「断片化」の問題として捉え、安吾には自然と言葉両方への「違和感」があり、言葉を記号化して「風景」としていくのだと答えた。「断片化」については高橋氏も、都市生活と映画のアナロジーをどちらも「切り刻まれている」ものとして捉え、モダニズムとは「断片化」そのもの(切断の美学)であると述べていたのが、強く印象に残った。


第18回研究集会印象記
牧野 悠
 2009年3月21日(土)、中央大学多摩キャンパスに於て開催された、坂口安吾研究会・第17回研究集会は、報告者である加藤達彦氏の問題提起から始まった。加藤氏は、運営委員を務めており、本来裏方として携わるべき役所なわけだが、今回発表の応募がなかったため、急遽報告することとなったという。発表を望む手が挙りにくくなっているのは、向後にとって好ましいものでないことはいうまでもなく、会の内外に参加者を拡大し、必ずしも研究者ではない、これから卒論なり修論なりに取りかかろうとする若い学生諸氏にも門戸を拡げ、より盛大な活動へ繋げることが、喫緊の課題であるように感じられた。
 加藤氏の発表は、「イノチガケ」と「白痴」両作品に見られる風景描写について、殺風景(ピクチャレスク)を鍵概念として援用することで、通底する安吾特有の感性に迫ろうとするものであった。従来の解釈、たとえば「日本文化史観」における美意識は、「必要」の一語に回収されてきたが、加藤氏は、安吾が美しいとするドライアイスの工場が、町屋の中に建っている点に着目し、異質なものの結合を重視するピクチャレスクの概念に近似する、不安定、不均衡、そして死の影というものへの憧憬が見出された。こうした、いわばジャンクな感覚の源泉として、「イノチガケ」で淡々とした筆致で描かれた、切支丹の弾圧場面と、典拠資料に掲載された俯瞰的な殉教図から受ける印象との共通点として、冷静であり断片的に描く方法を指摘する。「白痴」という作品に見られる、白痴の女の断片的な口や、調冒頭と末尾に混沌とした、連続性を持たない風景が配置される連環構造は、積極的に現実を断片化し、再認知するピクチャレスクに通じる叙述のスタイルであると結論づけられた。
 加藤氏の指摘した、安吾作品における断片化と異化を基調とするピクチャレスクな感性は、「夜長姫と耳男」における祝祭空間や、「不連続殺人事件」の着想の分析においても、有効な方法たりえるのではないかと、刺激を受けること頻りであった。加藤氏の問題意識の出発点とする、「戦争と一人の女」「桜の森の満開の下」に見られる女性像にも、たしかに統合や連続を撥ねのけるイメージがあり、安吾の嗜好を整理する上で、多分に応用する価値のある、補助線の提示であったように思われる。ただ、示されたピクチャレスクの典型とされる図版が、物質の過剰であるのに対し、「石の思ひ」に描かれた日本海のような、茫漠荒涼たる単調な海と砂浜への愛着は、それに反する、むしろ無に近いもののように感じられる。「白痴」には、虚無の持つ愛情も描かれており、有と無、双方へのあこがれを安吾は抱いていることとなるわけだが、いかに整合性が見出されるのか、更なる議論を俟つところである。
 高橋世織氏による基調講演は、エコロジーとエコノミーに関した多岐に亘る話題を渉猟し、今日文学に携わる人間に要求される自覚を促すものであった。高橋氏は、温暖化問題と対峙するために、「CO2を感じる体」を目指すべきであると提言し、そのモデルとして、安吾が最も手近な文学者であり、「風博士」と「勉強記」にそういった特徴が顕著に現れるとする。「風博士」は、通常の小説作品の持つ線上の気流に比して、散乱形と呼ぶべき、響、周波、振動を伴う、非可聴領域すら含んだ言語活動の展開を見出した。「勉強記」にも、身体から出入りする気体、液体について克明に書き込まれることからも、安吾が環境を読み取るに明敏であることの証とする。また、「勉強記」において梵語が見せる多種多様な変化から、環境思想史におけるアフォーダンスを連想し、岩盤のごとく堅固であるはずの名詞すら環境に応じて解体される言語感覚、「空気を読む」能力の高さから、安吾を「汚染度の低い作家」であるとして、結びの言葉とした。
 21世紀の文学研究者は、環境の変動にも鋭敏でなければならないとは、至極もっともな提議であり、自然環境のみならず、社会環境にも目を向けていく必要を痛切に感じた講演であった。対人的には、老若男女、貧富貴賎すべてに向けられた、文学研究が求められることになるわけだが、本印象記の筆者は、一介の余剰博士であり、喰うや喰わずの我身を省みて、ハタと立往生してしまう。空気を感じる理想像と、霞を喰うわけにはいかない現実問題と、両者をいかに止揚するかが、今日、陋巷に溢れるオーバードクターに共通する葛藤となっている。換言すれば、手堅さと本邦不羈な発想とが両立せねばならないという、優れた研究であるためのごく基本的な要項を、改めて痛感させられるのである。高橋氏の述べるとおり、作品なり作家なりへアフォードする、適切な研究方法の模索が、問題解決への捷径であることはいうまでもあるまい。
 共同討議では、高橋氏から、オノマトペの使用は、言葉の匂いへの感受性の表出であるとの指摘や、安吾のテキストが整序化できるか否かの問題、モダニストと自然との関連などについての議論が行われ、視座の死角に光を中てる、有意義な研究集会だったように感じられる。こういった会が永続するよう、みなさまお誘い合せの上で、と月並ではあるが、次回以降の本研究集会に興味を持たれた方々へ、言葉を残しておきたい。

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第17回研究集会


第17回研究集会印象記
内藤 由直
 坂口安吾研究会・第17回研究集会は、2008年9月20日(土)、花園大学に於いて開催された。参加者は約20名。この日のテーマは、〈坂口安吾とナショナリズム〉であった。これと同一のテーマを掲げた研究集会は過去に二度実施されており、今回が三度目となる。このテーマが継続的に設定されることは、安吾とナショナリズムという問題系が未だアクチュアリティを持っていることの証左であるだろう。当日の研究集会は、そのことを鮮明に示すものであった。
 会の前半は、加藤達彦氏による司会の下、会場を準備した浅子逸男氏の挨拶から始まり、大澤真幸氏の基調講演、宮澤隆義氏と大國眞希氏の報告が行われた。以下、大澤氏の講演内容を中心として当日の模様を概括し、その印象を記したい。
 まず最初に登壇した大澤真幸氏の講演は、「ネーションに抗する「ふるさと」」と題するものであった。大澤氏は、ナショナリズムが亢進する時代にあって安吾がなぜそれにコミットすることなく一定の距離を保ち得たのかと問いを立て、「日本文化私観」や「堕落論」そして「白痴」を読み解きながら、その理由を安吾が提示する〈堕落〉概念に内包されたラディカリズムに見出していった。大澤氏によれば、安吾の〈堕落〉とは「倫理の構成条件に対するアンチテーゼ」として措定できるものである。また、〈堕落〉が相対する「倫理」とは、ある決定的事実の否認を前提として一定の価値を創造/想像する機制を持つ思考の回路である(ex.天皇が人間であるという事実を否認することで命を賭す神としての価値を見出す)。大澤氏は、安吾の〈堕落〉が倫理を組成するこうした価値を放棄・失効させ倫理の再生産に亀裂を生じさせるインパクトを持つものであると結論付け、そして、この〈堕落〉の観念を無意識のうちに保持していたことこそが安吾と小林秀雄たちナショナリストとを分かつ境目になっていることを明示した。
 大澤氏の議論における徹底してシステマチックな論理構築とそこから導き出される結論の強度は、我々を圧倒するものであった。資料の継ぎ接ぎではなく論理自体が結論を実証するという優れた事例を目の当たりにして、私は「考える」とはどういうことなのかを再認識させられた。
 しかし、私は大澤氏が開示する〈堕落〉概念をどのように評価すべきなのか当惑した。寡聞にして私は安吾の〈堕落〉が研究史において現在どのように位置付けられているのか知らない。今、手元にある本を幾つか開いただけでも、例えば、「安吾において、「堕落」とは他者との関係にさらされるということを意味する」(柄谷行人「解説 堕落の倫理」『坂口安吾全集1』筑摩文庫 1989)、あるいは「安吾の言う堕落は「戦前の「健全」なる道義」を批判するために編みだされた戦略を言いあてたものであり、「堕落論」とは道徳批判のための、すなわちイデオロギー批判のための書であると同時に、戦後批判のための書なのである」(林淑美「坂口安吾と戸坂潤」『昭和イデオロギー』平凡社 2005 傍点省略)といった評価が示されており、この〈堕落〉にどのような意味を読み込むかは各論者によって様々な見解のあることが忖度される。〈堕落〉の意味を如何に内容付けるかは議論の余地のある問題であり、ゆえに安吾研究において最も面白い争点の一つではないかと思う。だが、共同討議においても、大澤氏の結論に対する批評は避けて通られたという印象を持った。この点、安吾研究を専門とする参加者たちの〈堕落〉評価を聞きたかった(大澤氏とのバトルを見たかった)というのが率直な感想である。
 続く宮澤隆義氏による「問題提起:「坂口安吾とナショナリズム」をめぐって」は、共同討議のための論点を提示するというものであり、安吾とナショナリズムの関係/無関係を示唆する幾多の資料を提示された。それから、大國眞希氏の「太宰文学とネーションと戦争/敗戦体験」は、加藤典洋『敗戦後論』の再読を基軸として太宰文学とネーション、あるいは太宰文学と戦争という問題系の中で現在どのようなことが論じられているのかを報告するものであった。両者はいずれも論を立てるのではなく様々な資料を会場に投げ出すという形で話をされたが、正直に言って結論のない話を聞き続けるのはつらいものがあった。それに、何か一つでも言いたいことを明示しなければ討議には結びつかないのではないか(実際、共同討議で最も面白かったのは、運営委員から発言を止められるまで自説を展開した司会の川村湊氏と大澤氏の議論であった)。安吾やその同時代に関する種々の読みが衝突すればするほど討議はさらに盛り上がるはずだと思う。
 研究集会の最大の魅力は、安吾研究会が毎回招聘する第一線の批評家・研究者が何を話すか、そして、共同討議でどのような議論が沸き起こるかということにある。これは、私のような非会員・非プロパーにとって、会場へ足を向けさせる大きなインセンティブとなっている。専門研究者の堅実な読みが、批評家や異分野の研究者との間にどのような摩擦・軋轢を引き起こすかが最も楽しみなことなのである。スリリングな研究集会の開催を今後も継続されることを期待している。


坂口安吾研究会 第十七回研究集会印象記
川畑 和成
 今回のテーマは〈坂口安吾とナショナリズムIII〉であった。大澤真幸氏の基調講演に続いて、宮澤隆義氏と大國眞希氏の報告があり、最後に共同討議が行われた。
 宮澤氏は〈問題提起・「坂口安吾とナショナリズム」をめぐって〉というタイトルで「日本」という言葉を端緒にして問題提起を始めた。「日本文化私観」の引用から安吾の持っていた「日本・日本人」観について説明し、それを批判する大杉重男と倉橋由美子の評論を紹介した。大杉は、安吾は日本という母胎に甘えている、といい、倉橋は、他者の眼で自分の内部をのぞけない、という。「日本」という概念を無条件に肯定する安吾の思想を、宮澤氏は「ファルス」とつながっているとした。そこから、固有名としての「日本」に疑問を提起する。はたして安吾のいう「日本」はナショナリズムなのか。ここで、ソビエトとアメリカの話が挿入される。安吾は、革命後のソビエトで教育を受けて成人したものは自分とは全く異なる思考を持つのでは、と思っていたのだが、自分と同様の思考だったことに失望する。宮澤氏はこれと日本の農民を対比させて、人間の性格は一朝一夕には変化しない、ということを示した。そして安吾が、日本の政治を改革することで日本人の性格を変えようとしたマッカーサーを支持していた、と述べた。ここでまた、「近代的個人」という話題に移る。松本健一の評論を引用して、安吾が近代的個人を超越する方法として「肉体」というものを意識していた、と説明した。そして「私は誰?」を引用して「そして私は、私を肯定することが全部で、そして、それは、つまり自分を突き放すことと全く同じ意味である。」という一文の解釈を試みている。最後に結論として、安吾が思考していた、国民国家を構成する近代的個人を超越するための「肉体」というものは、ナショナリズムやパトリオティズムとは異質なものではないか、と結んだ。全体的にみると、話の方向性が一定しているとは言い難いのだが、誤解されやすい安吾が語る「日本」という言葉の意義を多角的に検討し、ナショナリズムとは異なる意味合いが含まれているのでないか、という結論には肯けるものがあった。
 大國氏は〈太宰文学とネーションと戦争/敗戦体験〉というタイトルで太宰の作品「トカトントン」を中心に、戦後の太宰について報告した。まず、加藤典洋の引用から、「トカトントン」という音が戦後以後のノンモラルの声である、とする見解を紹介し、戦争から生きて帰ってきたものが「トカトントン」の若者になる、という解釈も紹介した。次に、加藤の、太宰の文学は水門が開かれても戦前戦後とも水位が変化しない、という説を紹介し、それに対する大澤真幸氏の、水位が変化しないのは元々低かったから、という説を紹介した。ここで、作品の構成について言及する。大澤氏の引用から、作家が作中人物の誰により多く共感しているかではなく、書簡とそれを読み返信を出す作家という作品構成にこそ太宰の意図があったのではないか、と指摘した。それから、戦後の太宰が自身の過去作品を切り貼り再構築するという過程で「太宰治」を生成していた、と指摘したうえで、その作業が「太宰治」という存在をバラバラにし、その支持体を亡失させてしまった、と指摘した。そのために書いているものがうそかもしれないという、崩壊した自我というような状態になったのではないか、と説明した。また、藤井貞和を引用して、作品のごく一部だけを取り上げて、そこに作家の思想の全てが反映されていると論じることは、アンフェアである、と述べた。それから、太宰と安吾の共通点について、松本和也を引用して、「無頼派」という呼称が太宰の死後にマスメディアによって形成された、と紹介した。また、二人の共通点として「女の語り」について述べた。最後に、太宰とナショナリズムについて、原仁司の論文を紹介して締めくくった。
 大國氏は、冒頭でナショナリズムについてはよく分らない、と述べていた。また、作家の主体性というものにも疑問を投げかけていた。太宰治という作家が、戦後においても大きく変容しなかった理由は何か。それは、作品の解体と再構築を繰り返すことで、太宰自身が、自己の存在とそれが存在している時空の実存性を疑っていたからではないか、というような印象を受けた。
 共同討議では、司会の川村湊氏が口火を切り、「日本」「日本浪漫派」「ムーゼルマン」「自然」などの言葉をめぐって活発な意見交換が行われた。印象に残ったのは、「日本」という言葉に対する大澤氏の発言で「日本」とは「否定する形でしか言えない何かを言うために使われている固有名」というものであった。
 「日本」という存在は、有史以来ものでなく、また変遷していくものである。坂口安吾の語る「日本」には、それが如実に表れている。そう思わせる研究集会だった。

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第16回研究集会


第16回研究集会 印象記(前半)
加藤 達彦
 今回の研究集会は、前回に引き続き、早稲田大学・戸山キャンパスで行われた。テーマは「坂口安吾と笑いの領域」。当日の参加者は30名ほどだったと思う。安吾研究会はいつも基調講演からはじまるが、今回の講演者は荻野アンナさん。本テーマにはうってつけのゲストだろう。講演タイトルは 「安吾と二つの仏」。(さすがダジャレの女王! うまいタイトルだなぁ。)お話はおもに「日本文化私観」の読みをめぐり、たいへん興味深い指摘がされた。ずいぶんと新しい安吾像も呈示されたように思う。
 新潟・松之山の大棟山美術博物館を訪れた荻野さんは、安吾が大ウソつきだったことに気がついたと言う。「日本文化私観」では、冒頭「僕は日本の古代文化に就て殆ど知識を持つてゐない。……玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らない」とされているが、安吾の姉の嫁ぎ先である旧村山邸(ここが今の大棟山美術博物館)には、狩野永徳の屏風や高麗の青磁など超一流の美術品ばかりが収蔵されている。そんな豪農の家系と縁のあった安吾が「日本文化」を知らないはずがない。
 そう考えてみると「日本文化私観」というテクスト自体が、そもそもかなりひねった書き方になっていることが見えてくる。たとえば「日本文化私観」の末尾には、有名な「法隆寺も平等院も焼けてしまつて一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこはして停車場をつくるがいゝ、我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによつて決して亡びはしない」という一節があるが、ここでは「必要ならば」という条件が、さりげなく挿入されていることに注意しなければならない。つまり安吾の論理においては、いつのまにか〈ならば−if〉という、かなり強烈な前提条件が滑り込んでいるのである。
 荻野さんはここに読者に対する、安吾のおそろしくハイレベルな要求が示されていると主張する。(たしかに時いまに至って、私たちは「法隆寺」をぶっ壊すだけの「生活の必要」を見出していないし、むしろ昨今のナショナル・アイデンティティは、モニュメントをつくり、保存することに汲々としている。)このように安吾の論理は一見すると、スゥッーとつながっているように感じられるが、よくよく考えてみると、微妙なズレを孕んで進行しており、読者は知らず識らずのうち、その巧妙な(レ)トリックに巻き込まれいく。
 荻野さんは、これを安吾の〈スパイラルロジック〉と呼ぶ。ごくごく自然に螺旋状にのぼりつめていって、気がついたら、読者はえらく高い位置に立たされているというわけだ。まことに奇妙な論理展開なのだが、これについては意外にもヨーロッパ・人文学の伝統と重なるところがある。日本では一般に「哲学」と訳されてしまうが、荻野さんはフランス語の「philosophie(フィロゾフィー)」には、もともと「生活実感」・「生活の知恵」といった意味があると指摘する。これこそまさに「日本文化私観」のモチーフではないか。
 私は荻野さんの話を聞きながら、第13回研究集会の高山宏さんの講演「安吾の世界と暗合する暗号」を思い出していた。高山さんは、R・L・コリーを援用しながら、ヨーロッパ文学のジャンルの一つに「パラドックスの文学」があり、安吾は日本でそれを体現した希有な作家の一人だと力説された。 荻野さんご自身はあまり強調されなかったが、ブルーノ・タウトのパロディである「日本文化私観」は、〈ならば―if〉と〈スパイラルロジック〉のストラテジーによって、やはり「パラドックス」の系譜に連なるテクストと言えると思う。(ここらへん俄然、安吾が実に面白くなってくるところだ。)
 さて以上がヨーロッパ・仏文学の命脈につながる流れ――安吾における二つの「仏」の一つ――とすれば、もう一方の「仏」とは、もちろん「仏教」「仏」ということになる。
 近年、安吾の「仏教」については、親鸞との関わりが取り沙汰される傾向があるようだが、荻野さんはそれよりも真言密教とか修験道に連なる流れを示唆された。このあたり実証性には欠けるものの、安吾を理解する感覚として斬新なものを感じた。荻野さんは難行苦行する修験者の写真を見せながら、しかし一歩引いて見ると、その異様な形相にはバカボン系(!)のおかしみが漂っていると言う。どこまで行ってもキリがない、だけど突き進んで行っちゃう山伏たちの振る舞いは、当人たちが大真面目であればあるほど、その一方で「ナンセンス」の様相を醸し出す。
 まとめると、こうなるだろうか。「悟り」を開こうと「仏」教に接近した安吾は、結局、そのゴールを誤って挫折した。しかしそれがかえって文学者・安吾の核を形成し、彼は「仏」文との出会いを通じ、「仏」教のみでは把捉し得ないものを表現というレベルで徐々に果たしていった……と。
 私はこの二つの「仏」をつなぐものとして、安吾の「ファルス」とか「笑い」、「パラドックス」の精神があるように理解したが、残念ながら、今回、荻野さんはその辺を明言されなかったように思う。やはりそこに踏み込んでいくには、安吾の仏教観をもっと追究していく必要があるのだろう。
 会場からは1930年代のモダニズムの文脈(いわゆるエロ・グロ・ナンセンスとは一線を画す短詩形文学やレコード音楽との絡み、あるいは雑誌編集の組版の問題など)と関わらせる質問も出て、とても刺激的であった。
 それにしても安吾文学がもつこのメディア・ネットワークは何だろう。荻野さんの講演を聴きながら、あらためてその大いなる可能性を感じた。安吾研究は確実に新たな段階に入りつつあるのではないだろうか。

 最後に蛇足。
 研究集会もこれで16回目となる。運営委員の一人として、研究会を通じ、これまでさまざまな方との出会いがあったが、今回ほど「縁」ということを感じたことはなかった。小規模ながら、こうして年2回集まり、安吾について語り、議論することの意義とそうした「場」を確保しておくことの大切さを痛感した次第である。
 会場近くにお住まいのご子息・坂口綱男さんが飛び入りで参加してくださったのも、そうした「縁」の一つで、私にとっては望外の喜びとなった。懇親会でのお話しも実に楽しく、私はうっかり終電を逃してしまったほどであった。その時の様子は安吾研究会のHPでどうぞ。
http://page.freett.com/angoken/katudo.html
 綱男さんの談では、坂口家にはちゃんと法螺貝が保管されていたとか。もしかして安吾は、修験の立螺作法を実践していたのだろうか!?


第一六回研究集会印象記(後半)
大原 祐治
 滝口明祥氏の発表「ナンセンス作家・井伏鱒二―同時代評を中心に」は、「ナンセンス文学」という語の下に近接していた一九三〇年前後の坂口安吾と井伏鱒二の文学において、実際には何が共有されていたのか、ということを確認する作業を起点としつつ、その共通性を軸に一九三〇年代の文学的パラダイムを捉え返すことを目論む問題提起的な発表であったように思う。
 滝口氏が起点とするのは、戦後の井伏が大幅な改稿を加え、場合によっては自ら全集類から削除した、一九三〇年前後の初期作品に対する同時代評である。一九二八年の作品「鯉」によって宇野浩二、牧野信一らの好評を得た井伏が注目すべき新人として登場した際、「ナンセンス」という評言=レッテルは出てこない。この評言は、一九三〇年に入り、中村正常の文学とセットで語られるに及んで、俄に井伏文学に対して付与された言葉であり、その後、このレッテルだけが空語として流通するさまを、滝口氏は丹念にたどる(後年の井伏が初期作品について行う操作は、このような事態に対する処置だった、ということなのだろうか)。そして滝口氏は、このような同時代評の推移の中で発表された初期作品「谷間」(一九二九年)に注目する。井伏のいわゆる〈郷里もの〉の原点と言えるこの作品は、同時代評を見る限り、賛否両論を惹起しつつもプロレタリア文学の近傍に置かれて論じられていたが、滝口氏はこれを、プロレタリア文学のパロディだったのではないかと意味づけた。エッセイでの言明などから察するに、当時の井伏は、同時代的なモードに身を委ねるのではなく、むしろ、それに反抗し反逆することにこそ〈近代〉性を見出そうとしていたのであり、実際、この「谷間」という作品も、プロレタリア文学的リアリズムに対する懐疑として書かれ、受容された。庶民の「みじめさを丹念に拾い上げる」(杉浦民平)井伏文学の特徴は初期作品から一貫していたにもかかわらず、それが同時代評の空語に曝された結果、初期作品が示していた可能性は、大幅な改訂あるいは全集への不採録という形で不可視化された。しかし、井伏の志向は一九三〇年前後において十分に批評的であり、それはまた「FARCEに就て」(一九三二年)で安吾が示していた、「形のない」現実をただ「感じる」という志向と共振している。滝口氏が示したのは、井伏と安吾を「ナンセンス文学」という空語とは異なる地平においてつなぐ可能性であった。
 会場からは、同時代のモダニズム一般と井伏の戦略との差違や、プロレタリア文学に対して井伏が示し得た批評性の実際的強度について問う声があがったが、これらの問いに対する答えが明示されたとき、滝口氏の論は一九三〇年代の文学状況全般に関わる批評的強度を獲得するように思う。会場とのやりとりも含め、総じて、興味深い議論であった。
 浅子逸男氏の発表「坂口安吾 戦後の笑いの方法」は、通例、戦前の初期作品をベースに考えられることが多い安吾における「笑い」という問題について、あくまで軸足を「戦後」に置きながら再考したい、という立場表明からはじまったが、着地点はむしろ「笑い」の問題に限定されず、安吾の歴史意識と文体の変遷・確立という、より大きな問題にあったように思う。
 浅子氏が最初に確認したのは、一九四〇年前後から顕著になる安吾の「歴史」への関心が実際の創作活動に反映されていく、その実相である。キリシタンへの興味から「イノチガケ」(一九四〇年)を書き、その後長篇『島原の乱』を構想していた安吾において、「歴史」を扱った小説を書くこととは、まずは資料/史料と丹念に向き合い、その成果を自らの作品へと愚直に反映させることとしてあった。だからこそ、「イノチガケ」は一見きわめて無機的な〈事実〉の羅列とも思われるテクストとなり、綿密なノートが作成された『島原の乱』は、結果的に流産される。しかし、戦後になってからの安吾は、こうした資料/史料への沈潜に留まることなく、それを消化した結果、「安吾史譚」などのいわゆる〈安吾もの〉のスタイルを確立していった。そのプロセスは、一九四七年の小説「道鏡」と「安吾史譚」の中の一篇として書かれた「道鏡童子」(一九五二年)の間の差違として刻まれている、と浅子氏は言う。俗説としても広く流布する道鏡と孝謙女帝の関係について、あくまで資料/史料に基づきつつ「小説」として提示するのに対し、後者ではむしろ、俗書・俗説の類を遠ざけ、むしろ建白書のようなまっとうな史料をベースにしつつ、それをあえて、まっとうな歴史叙述とは縁遠いような独特な文体で提示する、という方法が選択されるに至る。浅子氏が提示したのは、このようなプロセスについての再確認であり、氏自身は明言されなかったものの、最初に宣言された「戦後の笑い」という問題もまた、おそらくはこのようなプロセスの中に胚胎するものなのだろう。
 会場からは、安吾の文体が変わる(崩れる)きっかけとは何だったのか、安吾自身の中に小説とエッセイというジャンルの境界線がどのように意識されていたのか、という質問や、安吾のキリシタンへの関心が、同時代の戦争あるいはマルクス主義の問題とどのように切り結ぶものだったのか、という 質問が寄せられ、ゲストも交えて活発な議論が展開された。
 坂口安吾という一人の作家が生きた時代の文学をめぐる「歴史」的状況と、その安吾自身が対峙していた資料/史料としての「歴史」と、二つの次元での「歴史」が交錯する議論が繰り広げられた研究集会となり、一参加者として有意義な時間を与えてもらったように思う。近年、参加者がやや減 少傾向にあり、せっかくの議論が必ずしも広く共有されないことは残念でもあるが、運営委員会からは今後の活動方針について検討中であるとの報告もあった。今後の研究会の展開に期待したい。

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第15回研究集会


第15回坂口安吾研究集会基調講演印象記(前半)
山根 龍一
笠井潔氏による基調講演は、氏の持論の核となる「大戦」、すなわち第1次大戦についての歴史的な説明から始まった。氏によれば、“世界大戦の論理”――総力戦体制により前線/銃後の区別が消失し、敗戦国は旧体制を破壊し尽くされる――が確立された第1次世界大戦の惨禍によって、「進歩と向上」を基調とする19世紀の精神は、決定的な変容をこうむったという。そして、第1次大戦の戦火をかいくぐったヨーロッパの焦土に生まれたのが、アヴァンギャルド・モダニズム芸術、あるいはボルシェヴィズムやナチズムといった20世紀型国家モデル・国家管理経済体制であった。
こうした前提を示した上で氏は、かつて戦後歴史学などが提示した「近代/前近代」(=「都市/農村」=「インテリ/民衆」)という枠組みに疑義を呈する。このような二分法ではときほぐせないものが多いのではないか、と。そこで氏が例として挙げるのが「転向」をめぐる問題系である。
20世紀型国家を作り上げた西ヨーロッパ(ドイツ・ソ連)では“大量転向”が存在せず、日本でのみ、それが存在したのはなぜなのか。その原因は、日本が第1次大戦――世界戦争の苛酷さ・圧倒的暴力・大量死の現実、19世紀的精神の破壊、等々――を経験していないからではあるまいか?ここを基点に、第1次大戦を「通過したか/していないか」が種々の問題を考える上で大事なのではないかという、氏の持論である提言が行われた。
次に氏は前述の提言に基づき、戦時中、横光利一ら多くの文化的モダニストたちが日本回帰(「転向」)を完了させていくなか、唯一残った最後のモダニストが坂口安吾であることを、「日本文化私観」(昭17・3)を例にとって説明する。当該エッセイにおいて機能美・機械美を賞讃する作家の美意識は、F・T・マリネッティら未来派(フトウリズモ)のそれに近く、それこそが、安吾が“第1次大戦後”の美意識を感性的な部分でつかんでいた証左にほかならないという。そうした議論は、戦後の「堕落論」(昭21・4)を例にとった、安吾と三島由紀夫、安吾とハイデガーの共通性と差異の問題を経由して、安吾と探偵小説をめぐる議論に接続していく。
英米において探偵小説というジャンルが確立されるためには、第1次大戦という20世紀の世界戦争(=大量死)の経験が不可避の前提であった。第1次大戦を経験していない日本においては、『不連続殺人事件』(昭23・12)という戦後日本の探偵小説を代表する傑作を残し得た坂口安吾こそ、第2次大戦を20世紀の絶対戦争として正面から通過しえた文学者である。その意味で彼は、ヨーロッパのモダニズム精神を真に骨肉化していた稀有な存在ではなかったか――。最後にこう述べ、氏は講演を締めくくった。
全体としてスケールの大きな話の中に、従来の「転向」をめぐる議論には見当たらないパースペクティヴがうかがえる大変興味深い講演であった。とりわけ、安吾と探偵小説をめぐるくだりは、すでに『探偵小説論』その他で持論を体系的に展開している笠井氏ならではのものであり、啓発され ることが多かった。
しかし、スケールの大きな話であるだけに、細部に疑問が残ったのも確かである。会場でも質問したのだが、1920〜1930年代の日本のアヴァンギャルド・モダニズム芸術を問題にするならば、関東大震災の歴史的な位置付けは不可欠なのではあるまいか。氏が応答されたように、確かに一方は戦災国に甚大な被害をもたらす世界戦争であり、一方は関東一円に局地的な被害をもたらした自然災害である。しかし、これまで関東大震災を日本近現代文学史における一つの重要な転換点と理解してきた者としては、第1次大戦の破壊・大量死と関東大震災のそれとが、どのような点で違い、また同じであるのか、被害の拡がりのみに還元されないもう少し突っ込んだ説明がほしいという思いが残った。また、「日本文化私観」で展開されている安吾の機能美・機械美礼讃は、「体制批判」として素直に肯定できるものであるのかどうか。確かに当該エッセイは、「生活の必要」という観点から従来「日本的」とされてきた物事を眺め返していくという点において、国体論の系譜に立つ日本主義イデオロギーに対する一定の批判的射程を有している。しかしながら、未来派がのちにイタリア・ファシズムへ傾斜していったように、合理性という観点から小菅刑務所その他の建造物を賞讃する安吾の言説は、戦時下のもう一つのイデオロギー、すなわち総力戦体制論の合理性追求の議論と重なる面もあるのではないか。たとえば赤澤史郎氏「戦中・戦後文化論」(『岩波講座 日本通史 第19巻 近代4』1995・3、岩波書店、285頁)などを参考に、日本主義と総力戦体制論が、相互に矛盾対立する側面をはらみながらも、反自由主義・反資本主義という点で癒着し、戦時下の支配的イデオロギーを形成していたことを考える時、「日本文化私観」を初めとする戦時下の安吾の言説は、もう少し評価の難しいものであるように思われる。
以上、細かいことを色々と書き連ねてきたものの、全体としては「転向」や「探偵小説」などの問題系に関する氏の示唆に富むすぐれた発言に啓発されつつ、個人的にはモダニズムそのものの評価の難しさを考えさせられた講演であった。


第十五回研究集会 印象記(後半)
諸岡卓真
朴智慧氏の「「肉体自体の思考」から「オメカケ性」へ――安吾におけるサルトル――」は、安吾の〈肉体の思考〉という問題が、サルトルの受容と応答によってどのように変化したのかを問うたものだった。室鈴香氏の「安吾とサルトル」(「國文學論叢」第五十二集、二〇〇七年二月)を踏まえた上で、サルトル「水いらず」と安吾の『女体』や『花妖』などの戦後小説を具体的に比較検討し、サルトル受容後の安吾作品を「オメカケ性」というキーワードで把握しようとする。サルトルからの影響、あるいはサルトルと安吾の問題意識の共鳴といった観点で具体的な作品分析を行おうとする見通し自体は興味深いものだった。
ただ、室氏が指摘していた日本におけるサルトル受容のずれの問題が論のなかに上手く取り入れられていないきらいがあったのが惜しまれる。安吾がサルトルをどのように受けとめたのか(問題をそのまま引き継いだのか、それとも何かしらのずれがあるのか)がいまひとつ定かではなく、そのためにサルトルへの応答によって変化したという安吾の「肉体自体の思考」や「オメカケ性」という概念自体も曖昧なものになってしまっていた。会場からは、安吾の戦前の作品にもオメカケが登場するものがあるといった意見が出されていたが、安吾のサルトル理解をさらに明確化し、サルトルとの距離をはっきり提示した上で「オメカケ性」の分析をすることができれば、生産的な議論に発展するのではないか。
牧野悠氏の「剣豪小説黎明期における「女剣士」――五味康祐「喪神」からの触発―」は、五味の「喪神」を補助線にしつつ、「女剣士」の剣豪小説ジャンルでの位置づけを考察しようとするものだった。前半では、「喪神」の描写が「日本剣豪列伝」をはじめとした直木三十五の先行テキストに酷似していることが論証され、安吾が「喪神」の「独創的な造形力」に与えた評価は錯覚に基づいていることが指摘された。氏はそこから、安吾が「喪神」に触発されて「女剣士」を構想する際には基本的に史書や実地調査を典拠としたため、剣豪小説のフォーマットを獲得できず「エラーの目立つ作品」となっているとする。しかしその一方で「史実を重視する『歴史小説』的なものとして読むには、非常な無理が伴う」とも述べ、「従来のファルスや歴史ものと異なる、剣豪小説の系譜に連なる作品として考えるべきである」と主張する。後半では「喪神」と「女剣士」の剣術に関する説明に着目し、「夢想剣」を基礎とするアイディアや「正剣=魔剣」の図式が共通することから「安吾は五味から剣の理念を受けついだ」と述べていた。このような魔剣の描き方は、柴田錬三郎が夢想剣をアレンジして「円月殺法」を編み出したことに象徴されるように、剣豪小説黎明期の方法として的を射たものだったと結論する。
多種多様な資料を活用して「喪神」や「女剣士」の構想を分析してみせる手つきは鮮やかで、剣豪小説や歴史小説に明るくない私にも興味深かった。ファルスや歴史小説といった従来のキーワードに囚われることなく、剣豪小説として分析した場合の「女剣士」の解釈というアイディアも新味があった。ただ若干の危惧を抱いたのは、ジャンルの捉え方がややソリッドに感じられた点だ。「剣豪小説として」評価するという戦略にはもちろんメリットもあるが、その他の解釈の余地を考慮の埒外に追いやってしまうというデメリットもある。ジャンルが重なる場合がある以上、歴史小説でありながら剣豪小説、剣豪小説でありながらファルス、というような解釈の可能性もあり、そのような立場を取った方が、他の安吾作品や隣接領域の作品との繋がりという点では分析がしやすくなるだろう。
二人の発表のあとでは、講演を行った笠井潔氏を交えて自由討議が行われ、笠井氏が二人の発表者に質問をする場面もあった。中でも剣豪小説における「痛み」を感じさせる身体についての議論では、氏が「現象学的小説論へ」(『探偵小説論序説』)で展開していた「痛覚」の哲学をベースに、柴田錬三郎や小林多喜二、平井和正といった様々な時代、ジャンルの作家・作品についての言及があり、非常に刺激を受けた。

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第14回研究集会


坂口安吾研究会 第一四回研究集会(二〇〇七・三・二四、於・花園大学)
基調講演印象記
花ア育代
佐藤卓己氏による基調講演は「『終戦記念日の神話』を超えて」と題するものであった。冒頭、氏は、「文学は実は若干苦手なのだが」と謙遜しつつ「坂口安吾なら「終戦記念日」をどう考えるか?」と掲げ、一九四六年一二月発表の「続堕落論」の一節を引きながら、「軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日」という安吾ならば、一九八二年四月一三日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」制定を、同作中にあるように「嘘をつけ!」と唾棄しただろうと述べて、講演を開始した。周知のように氏には著書『八月十五日の神話――終戦記念日のメディア』(二〇〇五年、ちくま新書)があり、同書で氏は八月十五日=「終戦」が自明なものでないことを、克明な調査によって提示しているが、今回の講演は、この研究をさらにすすめたものであった。とりわけ、一九四八年三月、衆参両院調査部の「祝祭日に関する世論調査」を資料として提示され、先述の一九八二年四月制定の「追悼」と「平和祈念」とが、別個の祭日として掲げられていることを報告された点は興味深かった。すなわち「国の為になくなつた人々を追憶する日」で最多と次点が「四月三十日」(招魂祭)・「八月十五日」であったこと、「八月十五日」は祝祭日「お盆」の最多とも月日を共有すること、「平和を祈念する日」として「将来講和條約の結ばれる日」が最多であったことについて特に言及があった。氏の提言である、八・一五を残すのであれば追悼の日とし、平和祈念を九・二などとして分け、九月ジャーナリズムを、という主張が、戦後のはやい時期の事情に合致するものをももっていることが確認された。 現在、韓国での『終戦記念日の神話』刊行準備中でもある氏は、「八・一五」は戦争という相手のある問題に関してきわめて内向きであり、少なくとも東アジアの対話のためにも九月ジャーナリズムを、との氏の近年の提言をいっそう強調されて講演を締めくくった。 同時代資料の丹念な調査結果として、前掲書に続き、今回の講演でも、当初は「終戦」として銘記されるべき日付としては、八月一四日(ポツダム宣言受諾声明)であったり、九月二日(ミズーリ号上での降伏文書調印=同詔書発布)であったりしたことが、あらためて顕在化されたといえる。また公安調査庁編纂資料を参照の上、前掲書でも結論されていた「八・一五」が「記憶の五五年体制」でもあることを、あらためて示し、「左」(=一九四五年八月一五日韓国光復)のみならずとりわけ「右」(=一九五二年八月一五日の故石原完爾四周年記念日に東亜連名同志会結成)陣営に「「国辱記念日」として注目されはじめた」点に注目したことも興味深かった。いずれにしても八月十五日が当初から少なくともGHQ占領下の頃には自明ではなかったという調査と考究は卓越したものといえる。しかし、会場でも質問したのだが、佐藤氏が冒頭で「実は若干苦手」と述べた、その文学の言説の中では、そうした資料の一方で、八月十五日が「終戦」として意識的に記されているものもまたかなり顕著といえるのである。発表までの間に改稿があったのかどうかは各々別に問題とすべきところであろうが、よく知られているような永井荷風や山田風太郎の場合などはすぐに思い浮かぶところであろう。荷風「断腸亭日乗」は、午後になって「ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと」聞き「あたかも好し」と記し「欄外」にも特に「正午戦争停止」と「墨書」している。風太郎は「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみしか記さず(または記せず、か)、翌日になって「八月十五日のこと」として改めて「負けた」と記す。さらに興味深いのは大岡昇@の小説『俘虜記』「八月十日」が、占領下の初出誌『文学界』一九五〇年の三月号、初収録本『サンホセの聖母』(作品社、一九五〇年六月)ともに次のように記していることである。「我々[俘虜=花ア注]にとつて日本降伏の日附は八月十五日ではなく、八月十日であつた」。「八月十五日ではなく」という記述に、占領下において「八月十五日」もまた強固に作動し始めていることを物語る記述ではある。 佐藤氏が掲げた齋藤茂吉日記の「八・一四=御聖勅」を示す記述、また知られているところでは、高見順の「もとの日記の文章そのものには、いささかも改変の筆は加えられていない」と「あとがき」して発表することになる「敗戦日記」が、「八月十五日」にさまざまな感慨を記しながらも、「十四日」分に翌日に重大発表があると記していることなどを考えると一筋縄ではいかないと考えさせられる。氏も、文学者などがどのように考えていたのかを否定するものではないが、と応答されたが、むろん、「八・一五」について正史ではない個々人の記録/記憶を否定したり、どれかの記憶が「正しい」と言ったりする性質のものではない。しかしだからこそ、少し大上段にふりかぶっていえば、文学研究の側からは、「八・一五」が当初―昭和二〇年代の早い時期、GHQ占領下時点でも、「終戦」として記憶/記録されていることを無視/無化はできないということであろう。それはもちろん、現在の特権的な立場から、九・二など他の日付ではなく「八・一五」に何らかの意味を附して記した文学言説を、「神話」を生成したものとして断罪することでも逆に擁護することでもない。佐藤氏のメディア学のようなすぐれた成果を学びながらも、あらためてテクストに向かい合うこと(むろん無垢に、ということはありえない)が肝要かとおもわれる。―こうしたことをあらためて考えさせてくれた講演であった。


坂口安吾研究会 第14回研究集会 印象記
室鈴香
第14回研究集会では、二名の研究発表があった。浅子逸男氏の「安吾・天皇・言論」のポイントは、大きく分けて二つある。一つ目は、安吾の天皇に関する発言について。浅子氏は、「ラムネ氏のこと」(昭和16年)における「御大切」という言葉の典拠(新村出『日本の言葉』昭和15年)を指摘していたが、今回は、もともとは大正天皇の病状に関する報道語であったと補説し、この報道が、安吾の記憶にもあったのではないかという。安吾研究では、戦後の天皇に関する一連の発言についての研究は重ねられてきたが、戦前の作品からも背後に天皇存在を感じさせる言葉を拾い上げていこうとする試みである。二つ目は、戦後の作品にたびたび描かれる「火薬庫が爆発する幻想」について。昭和12年、安吾は京都の伏見に下宿するが、この下宿からは伏見火薬庫が見える。この年、宇治火薬製造所(宇治の火薬庫)が爆発する。この事故は軍事機密として報道されなかったが、浅子氏は、伏見滞在中に安吾は何らかの形でこの報道を知ったのではないかという。さらに、そのことを原稿に書いたが、(軍事機密であったがゆえに)雑誌発表できなかったのではないかと推測する。また、『古都』における「親父」と、『青い絨毯』『ヒンセザレバドンス』の「僕」の形象の相似を指摘し、失恋あるいは『吹雪物語』に向かっていった「最もどうにもならない状態」と、火薬庫の爆発の幻想が重なっているのではないかとし、『古都』における「そうして、語るべきこともない。」という記述を、「語れなかった」と読める可能性を示唆するのである。浅子氏は、慎重に、何度も推測、憶測という言葉を使っておられたのだが、「火薬庫が爆発する幻想」が実際の体験に基づくものではないかとする指摘は大変興味深い。宇治火薬製造所爆発の正確な日時の特定が待たれる。
三品理絵氏は、昨年「国文学 解釈と鑑賞」(11月号)において、「紫大納言」の初出と単行本収録稿の検討をされたが、「王朝物と坂口安吾――『紫大納言』を中心に」は、この論考を踏まえた発表だった。改稿によって「全く別の話」になった「紫大納言」(昭和16年)であるが、三品氏は、改稿前の初出稿に、より興味を持たれているようだった。また、「紫大納言」と、竹取、伊勢、そして松浦宮物語との関連から、安吾が「(王朝)物語」に何を求めていたのか、そこ(素材)から何を引き出そうとしていたのかという論題を提出された。今回の発表では、その考察までは踏み込まれなかったが、この論題は重要な指摘だと受け取った。大幅な改稿は、改稿前に求めていたものと改稿過程で求めているものは違うということ、すなわち〈物語に求めるもの〉の変容を意味する。周知のように、初出稿発表と単行本刊行の間には2年あり、単行本刊行の年には、「文学のふるさと」が発表されている。発表後の質疑応答では、『炉辺夜話集』収録作品に改稿が目立つという指摘もあった。三品氏は、先の論文において、本作品の改稿に「静謐な『諦観』の物語から過剰さに満ちた『悪戦苦闘』の物語へという、ある種の転回」を見ておられる。今回は、「完結」した世界から、中心を失って壊れていくという言い方もあった。昭和14年から16年における安吾、また同時代状況において、この「転回」はどういった意味を持つのだろうか。従来、本作品(改稿後)の読みは、「五ツの物語は『吹雪物語』の暗さにうんざりしたのち、気楽に書いた短篇をまとめたもの」という単行本後記(昭和15年12月12日)を引きずり、そのために〈個人的次元〉(菅本康之氏)に回収されてきた。だが、言うまでもなくこの後記は大幅な改稿後に書かれたものである。安吾のこのようなもの言いを、文字通りに受け取ることの危険性を教えていただいた。

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第13回研究集会


坂口安吾研究会印象記(前半)
浅子逸男
 「安吾の世界と暗合する暗号」と題された高山宏氏の講演は、まさに「高山宏、絢爛にして万華なるパラドクス世界」というべき内容であった。演劇、詩、小説、批評とならんで、パラドクス文学というジャンルがあるというところから始まり、ロジックを中心におく推理小説とは、見えないことを見えるものにするというところが出発点になっていることの指摘など、目からウロコの話題満載であった。
オーソドックス(正理)に対するパラドクスであり、Doxという物の考え方の理論に関わってくることが安吾の小説や評論の根底にあることを、「悪妻」「貞操」「借金」などという語から例示し、とりわけ初期の安吾の評論はパラドクスの練習帳であると話された。「木枯しの酒倉から」に出てくるペチシオ・プリンシピーは、スコラ哲学で証明しなければならないことを仮定に含めてしまう論点窃取だという指摘は、曽根博義氏が『坂口安吾研究講座T』(三弥井書店)に載せた「「風博士」論」だけだったのではないだろうか。それがラブレーと繋がり、ジョン・ダンに通底していたとは。
安吾の特徴であるロジックから出発し、数学と論理学の関係ということでベケット、ゲーデルに話がおよび、夏目漱石の文学論、南方熊楠の土岐法龍宛て書簡へと、アイロニー、パラドクス文学についてとどまるところを知らない話に引きこまれた。
また、探偵小説は19世紀後半における大きなジャンルで、戦争で大金を掴んだところから出てくるので、大正十二年に「二銭銅貨」が登場したことは象徴的なのだという指摘に頷かされたのである。
二人目の重松恵美氏は「石川淳と坂口安吾−−破壊する力、再生する力」と題された発表であった。昭和十年代の石川淳の戦争批判の作品群と二十年代の朝鮮戦争期のエッセイなどから、石川の思想を測定しようとする試みだったような気がする。「履霜」から登場人物による都市破壊についての発言を引きだし、それと保田與重郎、林房雄の発言とをからませたことは興味深く、安吾が昭和十二年に大本教本部の破壊された跡を見に行ったこととの対比には触発されるものがあった。残念なことに私の関心はそこに集中してしまい、そのあとの高橋和巳の『邪宗門』や石川の『狂風記』への言及については頭が反応していかなかった。それというのも、重松氏に対しては失礼だったのだが、宗教建築物の破壊と言えば昭和十六年に安吾が訪れた原城の址も含められ、近年の五十嵐太郎氏の精力的な仕事や井上章一氏の近著に大きく関わってくるのではないかという思いにかられてしまっていたのである。 さて、重松氏は天皇制への発言を「夷齋雑談」からとっていたが、「處女懐胎」の「天皇制は打倒する、結婚はカンガルーにまかせると、相場はきまつてゐるぢやないか」のほうが、天皇を中心とする一大家族国家だという戦前の教育(『國體の本義』文部省)をも批判しえているように感じていたのだが、どんなものであろうか。
「三 再生、極めて個人的な暴力」という氏の発表の最後の箇所を聞いているうちに、大江健三郎の「道化と再生への想像力」(『言葉によって』(新潮社)に収録)を思いだし、またそれとは関係なく「八幡縁起」と「梟雄」が再生(もしくは呼び起こし)というところで並べることができるのではないかという貴重なヒントをいただいた。
 それにしても、高山宏氏の驚嘆すべき講演によって引きおこされた昂揚感は、京都に帰宅してもつづいており、今まで気になりながら読みそびれていた『ゲーデル,エッシャー,バッハ あるいは不思議な環』(白揚社)と『エクスタシーの系譜』(あぽろん社)とを古書店に注文したのであった。
 (Miles Davisの"Doxy"(1956."Bags' Groove")を聴きながら)


印象記(後半)
葉名尻 竜一
 今回は石川淳研究会との共同開催であり、二人の作家を並べることで見えてくるものを探った研究集会であった。

 ○大原祐治「戦後に届くことば―坂口安吾・石川淳・小林秀雄」は、この二人の作家の間に小林秀雄を挟み、小林を基軸として各作家の「歴史」認識をあぶり出していく発表だった。かつての〈無頼〉や〈幻想〉というキーワードが共通項として浮かびやすいが、この問題意識は「『歴史』を書くこと―『真珠』の方法」(二〇〇一)などの論文もある大原氏の内的必然性から出てきたものだと言えよう。
 氏はまず、「僕等は与へられた歴史事実を見てゐるのではなく、与へられた史料をきつかけとして歴史事実を創つてゐる」との記述のある小林秀雄「歴史について」(一九三九・五)の横に、三木清『歴史哲学』(一九三二・四)を並べ、その共通性を指摘するところから始めた。この手続きは、後に三木が「東亜の新秩序」という現実構築の正当性へと論理を飛躍させるのに対し、小林が歴史のうちにある「自然」を尊重することで、一見後退とも見える小林の「近代の超克」への毅然とした態度を示すためのものであった。小林の「自然」の尊重は「古典」「永遠」の尊重へとつながり、書くことは「作品」として実在化させることであるとする安吾の批判を受けることにもなっていく。だが、安吾と三木とが同様な歴史認識をしているというのではない。大原氏の資料の並べ方は、早急な概念の抽象化で消えてしまう表現レベルが際立つように引用への配慮がある。本来ならこの印象記は、石川淳にも触れなければならないが、もう少し資料の並べにこだわりたい。会場からの質問に、この並びだと小林の歴史認識の源泉が三木であるかのように読めるというのがあった。大原氏は資料の発表年代から影響関係を見たと答えたが、質問者が付け加えたように書かれなかった二人の交友に一方通行ではない相互影響の想像を馳せることは無理なことではない。安吾の歴史探偵眼はそこに向かうものであった。実証困難な作業が常に付きまとう。しかし、氏の発表が並べた資料を丁寧に読み解くことで、その困難に向かっていたことも確かだった。

   ○原卓史「『安吾の新日本地理』の成立過程」は、「〈安吾もの〉の系譜」「歴史への挑戦」という二つの観点から論じられてきた研究史をおさえつつ、年譜や典拠等の基礎的な作業の空白地を補いながら、安吾がどのようなサイクルで文献を読み、現地取材をしたかを論じたもの。『解釈と鑑賞 特集坂口安吾の魅力』(二〇〇六・十一)にも、原氏は自身で撮影した美しい写真でもって文学踏査の紹介・解説をしている。この発表もまさに脚を使った発表だったと言えよう。
例えば「四、飛鳥の幻」に安吾は「私の行った日は、桜祭りの歌謡曲の日。その翌日は、ストリップ桜ショウの日、と宣伝ビラにあったね」と記している。この興行日は、当時の地方紙を繰っていくことでわかる。『大和タイムス』に「一九日(木)と二十日(金)テイチクさくら祭り▼歌謡曲=美ち奴、中村美和子」「二十一日(土)ストリップさくらショウ」とあって、安吾が取材旅行へ行った日程が「一九五一年四月二十日〜二十一日」だと推定できる。また、「一、安吾・伊勢神宮へゆく」では、真珠養殖の現場見学が出来ないのは、その秘術が外部へもれないようにするためであると書かれている。だが、(株)ミキモト発刊の自社百年史に、ほぼ同じ時期にリッジウェー連合軍総司令長官も夫人同伴で来場していることが載っている。原氏はそこからGHQの問題を周到に避けた安吾の作為を読み取った。
 会場からでた、基礎作業の過程で見えてくるものは何かとの質問に、原氏は「神」というキーワードを挙げた。神がかりでなく、自分の見聞によって各土地の歴史を再構築しようとする安吾の姿勢を指摘した。今回の発表で、文字の向こうに現場があること、それは地道な取材によってある程度まで確かめられること、その基礎作業の有効性が再認できた。

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第12回研究集会


「坂口安吾研究会第12回 印象記」
大國眞希
 今回の研究会では、自由発表形式で、ご発表が三本並んだ。
○山根龍一氏「『風博士』論−同時代コンテクストの掘り起こしを中心にー」は、先行研究において、その論理的な矛盾が指摘されながらも、最終的には<単なる洒落><笑い><ナンセンス>と評価されていた《遺書》から、その演説口調が福本イズムのそれを意図的に模倣していること、そして、そこで展開される論理が一般に「隠喩(メタファー)」と呼ばれる詩的言語表現(レトリック)であることなどを指摘したうえで、安吾の「転向」(マルクス主義という一つのパラダイムに対する安吾なりの距離のとり方)の実践を読むというご発表だった。《遺書》が<僕>の捏造=自作自演であるという作業仮説を読解コードとして措定し、<僕>の言説には、「自己の内なる『(宗教的)夢想家(ロマンチスト)』と『(科学的)現実主義者(リアリスト)』とを複眼的に視野に入れつつ、自作自演のことばの葛藤によって、両者を不断の動的緊張関係の中に同居させていく精神のあり方が表象されている」とする。同時代のコンテクストの掘りおこしをしながら、作品の言述の形式を分析していく手つきは鮮やかで、説得力を感じた。ただ、「詩的言語」については、「日常的に伝達に用いられるのではない、多義的なもの」というだけでなく、もう少し踏み込んだ、詳細な定義が必要なのではないか、と感じた。また、内容と形式との両側面から鋭く考察され、本発表によって明らかになった言語戦略と同時代のコンテクストを掘り起こすことの意義深さを加味した上でも、<僕>がそのまま(作品に先行して存在する)作家安吾と結びついて論じられているように映るのではないかとの危惧を抱いた。
○岩舩尚貴氏「安吾の自伝的小説執筆の意図をめぐって−スタンダールとの関連性から−」は、昭和二十一年から昭和二十四年までに自伝的な小説が数多く手がけられていることに注目し、なかでも「二十七歳」「三十歳」に注目して、スタンダールとの関連性から、これらの自伝的小説を書かなければならなかった安吾の真意に迫るという内容のご発表だった。安吾自身、自分の書く「自伝」は、いわゆる「私小説」とは異なると考えており、その相違点は、回顧的な展望を貴重としながらも「現在の時間」を入れることで自己の相対化をはかり、「過去の複写」ではなく、未来のために書かれている点であると考えていたことが確認された。その上で、如上の二作に「矢田津世子」が描かれている点に注目し、スタンダール作品との共通点が指摘された。質疑応答では、安吾自身の「私小説」、「自伝」の定義をそのまま(発表で挙げられたのは安吾の言説のみであった)前提として出発していることへの疑問が投げかけられた。「私小説」「自伝」の定義と、それらジャンルと「虚構化」の問題を考えるという課題を、新たに発見させられたご発表だった。
○黄益九氏「連綿たる支配/被支配の呪縛−『桜の森の満開の下』という空間」について」では、同作が、「暁鐘」5号に掲載される予定であったが、検閲後、紙不足等の問題で頓挫し、ほぼ同じような作品が並び、頁の配列も重なる「肉體」の1号に掲載されたことを、それぞれの目次を掲げて示された。そこから、同作の原稿は「暁鐘」の編集部がそのまま保管されていたのではないかと推論されるとした。その上で、特に、「桜」の表象(特攻隊、英霊の生まれ変わりなど)に注目し、作品に見られる「支配/被支配」の関係に、テキスト発表(執筆)当時の時代状況のアナロジーを読むご発表だった。初出についての検証は、大きな収穫であった。戦前・戦中・戦後の日本における「桜」の表象を研究されている黄氏が、坂口安吾研究会で発表するのにあわせて、「桜の森の満開の下」を取り上げたとのことだったが、わざわざ安吾の一作品を切り取らないほうが、結果的に、安吾作品を考えるうえでより有益となったのではないかと考えた。
 三者は異なる接近法であったが、作品内の「僕」と作家安吾との関わり、安吾自身の言説のみでの定義、安吾の一作品をのみ取り上げることの意義というように、期せずして、個人名を背負う研究について考えさせられた。
 自由な雰囲気で、自由討議における活発な発言も、会のひとつの魅力と思った。このような素敵な会風を維持するためには、個々が、発表に関係のない牽強付会な思いのたけは述べずに、活発な議論を促すよう自戒すべきとは、言うまでもないだろう。


「第12回 安吾研究会 印象記」
朴 智慧
 今回の研究会では、統一的なテーマはとくに設定されず比較的自由な枠組みで、若手研究者三名による研究発表が行われた。
 はじめに、山根龍一氏が「『風博士』論―同時代コンテクストの掘り起こしを中心に―」という題で発表を行った。風博士の遺書中の「余」の語り口と〈福本イズム〉に代表される浪漫的極左主義的口吻との類縁性、および、「余」の語る「義経=成吉思汗説」説にも同様の関連を認め、「擬似宗教的ロマンチシズムに対する『近親憎悪』に近い安吾の距離感覚」を読み取るというのが発表の本旨であった。その上で、「余」と蛸博士の対立から、自己の内なる「宗教的な夢想家」と「科学的現実主義者」との矛盾を、若き安吾の問題として剔抉し、そこから『風博士』における詩的言語(言述の形式)と身体性(言述の内容)という二つの方法の緊張関係を導いていく。『風博士』が発表された昭和六年前後の歴史的コンテクストを視野に収め、地道な注釈作業を通してテクストを同時代に開いていくという丹念さもさることながら、同時代の言説を批判、克服していくテクストの戦略を内在的に読み込んでいこうとする意欲的な発表だった。ただし、従来〈福本イズム〉としてくくられてきた一種の雰囲気と福本自身のテキストとが実際どのような差異をもつのかといった問題はこれまでも検討されてこなかったように思われ、その点を掘り下げてもらえれば一層発展するのではと感じられた。会場からは、安吾自身の思想的遍歴の問題を「僕」「余」の言説へと素朴に重ね合わせてしまっているのではないか、であるとすればさらなる方法的手続が必要なのではないか、といった質問が出された。
 次の発表は、岩舩尚貴氏の「安吾の自伝的小説執筆の意図をめぐって―スタンダールとの関連性から―」だった。岩舩氏は、昭和二十一年から二十三年にかけて、安吾が「二十七歳」「三十歳」などの自伝的小説を集中的に手がけたのはなぜかという疑問を提起し、その理由を端的に「矢田津世子について書くこと」が必要だったとまとめられ、さらに語りの特質から「過去を描写することによって導かれる現在の自分の相対化」、すなわち「自己の発見」の過程を見出された。発表の眼目であるスタンダールとの関連ということでは、安吾がスタンダールを読み込むことで、「自分とは何者か」を探る方法について強く触発されたといわれる。ただし、この点に関して発表者自身が、「表面的な関連性を指摘するに止まってしまった」との反省を口にしておられたように、両者のテキストの分析を通して、一般的な自伝小説とは異なる特質を提出するには至っていないように思われた。質疑応答では、自伝的小説と私小説との区別や、語り手と作家安吾の言説の線引きについて、質問が集中した。しかしながら、問題設定は興味深く、安吾とスタンダールとの具体的関連に関する今後の検証が待たれる。
 最後に、黄益九氏が「連綿たる支配/被支配の呪縛―「桜の森の満開の下」という空間」という発表を行った。氏は、「桜の森の満開の下」は「新潮」に掲載予定でありながらも拒絶され、「肉体」という三流雑誌にまわされたという従来の説を再検討し、プランゲ文庫所蔵資料より、雑誌「暁鐘」(1946.11)に掲載され発行の予定であったことを発見、検閲により「暁鐘」は発行されず、雑誌の一部を削除の上、「肉体」(1947.6)として創刊されたことを論証された。新資料の発見による大きな研究成果である。あわせて氏は、テキストにおける〈桜の森〉をメタファーとして考察され、軍国主義イデオロギーの表象としての〈桜〉を、桜の森/男という支配/被支配関係や、女/男という関係へとアナロジカルに展開させることで、テキスト全体に安吾の内省を読み取られる。このアナロジーの析出について、会場からは、たとえばテキストの「鈴鹿峠」と鈴鹿海軍航空基地とを結びつけているが、これは当時の機密事項であり一般の知るところではなかったはずである、といった質問が出された。やはり、女=支配=帝国というアナロジーには少々図式的な側面が感じられ、ここから戦争に対する安吾の痛烈な反省を導くには他のテキストとの関連を踏まえる必要があるのではないか、と思われた。
 今回、若手研究者による三者三様の発表を聞くことができ、大きな刺激を受けた次第である。

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第11回研究集会


「坂口安吾研究会 第一一回研究集会 印象記」
時野谷ゆり
 「坂口安吾と性」というテーマのもとに第一一回坂口安吾研究集会が開かれた。はじめに、井上章一氏の「私はきれいだという女たち」は、「日本文化私観」の話題に端を発して、明治時代から現代に至るまでの「美人」に関する言説を辿りながら、女性に向けられる男性の視線の変容と女性性の捉え方について問題提起する講演であった。井上氏は、明治時代に男性が美人に魅かれた場合には男性をたぶらかした女性の側に罪があるとされたが、現代では女性を顔の美醜で判断する男性自身が非難されるようになったという言論史上の変化に注目する。また、女性性を娯楽化、商品化するグラビア写真やミスコンテストについて、原理的フェミニズム論者は女性を性的に隷属させる男性側に責任を求めるのに対し、井上氏は、女性の社会進出が進み、男性が以前ほど男権的でなくなった結果、女性が自ら着飾ることの自由を獲得したという意識の変化を指摘する。そこから、女性の男性に対するセックスアピールを念頭に置いたフェミニズムを新たに構築する必要性を提起した。
 井上氏の発言は、男性の側から女性の外見の美醜を問題視する点で幾分男権的な要素が感じられたが、井上氏自身そのことに自覚的であり、豊富な具体例を挙げながら女性性の捉え方を問い直すことで原理的フェミニズムを相対化するものであった。安吾の作品に限らず、あらゆる性表現について発言しようとする時、論者自身が既存のフェミニズムにどのような距離を取るかということが問われるが、井上氏の発言は、論者が配慮しようとする余りに拘束されがちなフェミニズム的コードの再考を促す点で有効なものであったと思われる。
 次に、室鈴香氏の「〈情痴作家〉・安吾」は、一九四六年から一九四七年頃の安吾に対する「情痴作家」というレッテル、表象の形成を、同時代の評論家、文学者によるサルトルの受容との関連から明らかにしようとする発表であった。サルトルの「水いらず」の翻訳が一九四六年一〇月に『世界文学』に掲載され、翌一一月に『読売新聞』紙上で安吾の「肉体自体が思考する」と伊吹武彦の「サルトル談義」が「日本の実存主義運動」として同時に紹介されると、安吾とサルトルを結びつけ、安吾を日本の「情痴作家」の代表と位置づける解釈が広まった。このことは「白痴」の同時代の解釈にも影響を及ぼし、翌一九四七年二月に荒正人が安吾とサルトルの混同を誤りだと指摘するまで、その混乱が続いたという。
 室氏は、一九四六年一〇月から一九四七年二月という一時期を考察の対象とし、同時代における安吾の「情痴作家」という表象の形成過程を丁寧に辿っていた。しかし、表象の形成と同時代における安吾の言説の受容がどのような連関を持ち、従来の研究をどのように更新しうるのかについては疑問が残った。室氏は、安吾が提起した「思考する肉体」「肉体的な論理」という概念と、同時代における「白痴」の解釈との連関に言及していたが、そこにも同様の問題が指摘されよう。また、最後に安吾自身の弁として「肉体自体が思考する」等の言説を挙げていたが、作家自身に付与されたレッテルと「肉体の思考」という概念との連関について更に考察を行う必要があると感じられた。
 そして、天野知幸氏の「噴出し、浮遊するセクシュアリティ―「戦争と一人の女」と〈肉体文学〉―」は、「戦争と一人の女〔無削除版〕」と「続戦争と一人の女」の原典の本文について〈戦争〉と〈肉体〉という観点から比較分析を行い、二作品に男と女の意識の齟齬が見られることを指摘した。そして、「戦争と一人の女」がGHQによる削除処分を受けたことに関して、この作品には、集団で〈公的〉な戦争の記憶を作り出そうとする言論状況に対し、〈個〉の記憶を表現しようとした安吾の抵抗を見出せるとした。後半部では、一九四八年頃から〈肉体〉、〈性〉が商品化され、〈消費〉されていくことについて、同時代の「肉体文学」批評の言説を辿り、「肉体文学」への批判が高まる背景には、「肉体文学」「肉体」という表現の大衆化、通俗化という現象が存在しており、田村泰次郎の「肉体の門」が軽演劇や映画といった商業的メディアの中で〈消費〉されることで「肉体文学」が商品的記号と化したことを指摘した。そこから、安吾の「肉体文学」を同時代の文化状況の中に位置づけることの重要性を提起した。
 発表前半部の「戦争と一人の女」と「続戦争と一人の女」の原典の比較考察を通じて、天野氏は占領期のGHQによる思想統制による「歴史」の書き換えの問題に論を発展し、「戦争と一人の女」を同時代の言論状況に対する抵抗として捉えていた。しかし、この作品がGHQの設定した言論統制のコードに偶然的に抵触したことから、それを安吾の「抵抗」として一元的に評価するのではなく、他の事例に見られる安吾の言論統制への態度を視野に入れた上で改めて考察する必要性があると思われた。後半部の、田村泰次郎の「肉体の門」の軽演劇・映画化を例として挙げ、商業的メディアにおける「肉体」の〈消費〉によって「肉体文学」「肉体」が商品的価値を持つ記号と化す過程を明らかにする考察は新たな観点からなされたものであった。この問題提起は、自由討議において、大衆文化の方向へ進んだ田村泰次郎と安吾との差異、現代における〈性〉の商品化の問題に関する議論を導くことになった。発表の前半部における「戦争と一人の女」「続戦争と一人の女」の表現の問題と、後半部における「肉体」「肉体文学」の商品化の問題との直接的な連続性には疑問が残ったものの、安吾の「肉体文学」を解釈する上で同時代の文化現象との連関を考えることの重要性を説いた点で示唆に富む発表 であった。
 以上の発表を踏まえて、自由討議・質疑応答では、特に「肉体自体が思考する」の根本的意味を問う発言が寄せられた。今回の研究集会の成果を踏まえ、安吾の文学における「性」「肉体」の問題を多様な観点から問い直すことが今後の課題であろう。


「第11回 安吾研究会 印象記」
川口 奈央子
 研究会が立ち上がって、早や五年、第十一回を迎える我らが安吾研究会は「坂口安吾と性」というテーマのもとに開かれた。
 基調講演は『作られた桂離宮神話』、昨今では『美人論』等で知られる井上章一氏であった。井上氏は最初に安吾の「日本文化私観」をとりあげ、桂離宮よりも小菅刑務所の方が美しいという例の発言に、何かしら作られたインテリズム、教養主義を感じるという。例えばそれは、私は美人が好きである、面食いである、…と世間に正面切って言い切れない、抑圧された倫理感と通底するのではないかという切り口からはじめた。明治初期、女学校での美人の扱われ方が生徒手帳にどう書かれているか、または婦人と犯罪が、顔のよしあしとどう因果関係をもたらすのか、など氏が研究されている分野から新たな女性史の可能性も開かれるのではないのかという大変面白い示唆に富んだ講演であった。
 井上氏は昔ある建築物を見学に行ったとき、しょうもない空間だ…しかし受付のお嬢さんは美人だったなぁと感心したものの、本心どおりに文章を書くことが出来なかったという体験を話されたが、その枠を借りるならば、講演自体は面白く女性史について開眼するところも多かった、しかし安吾とはあまり関係がないなぁ…というところだろうか。いや触発されるところも大きかったのだが。
 続いて研究発表が、研究発表が室鈴香氏によって「情痴作家・安吾」というタイトルの元に行われた。安吾が戦後、文壇やジャーナリズムにおいてどの様に受容されていったか考察するものであった。大変ていねいに資料を集め、サルトルが日本に紹介された時の評価と、安吾の情痴作家というイメージが結び付けられていく過程をおっていくもので、その綿密な資料紹介をしていく態度に感心するものの、「それで?」と思った。それで将来的な展望はどうなるのか?、ということが見えてこなかったように思う。しかし安吾と言えば、"無頼派"というイメージばかりが強いと思っていたので、当時これほど情痴的と思われていたとは意外な発見であった。
 続いて京都の陽が傾く午後、二つ目の発表が天野知幸氏によってされた。タイトルは「噴出し、浮遊するセクシュアリティ−『戦争と一人の女』と〈肉体文学〉」で、「戦争と一人の女」を扱い、この作品がこれまでGHQの検閲の為、収録によって形態がまちまちであるという複雑な過程をおっていくとともに、「戦争」とまさしく「一人の女」の行き方を等価に並べることで安吾がどのように戦争を捉えていたかを考察するものであった。遊びだけではなく、精神的な高められたものを追い求める野村と、肉体的な感覚だけで生きる女を対立させて−かつ二人の男女関係はめちゃくちゃ−その構図が「個」が「国家」と直接つながっていかないバラバラな関係であると指摘した。そしてこの作品のような、当時の言葉で言う「肉体文学」に対して文壇からの批判があったこともあげ、これからの研究に受容史みたいなものを考えなければならない指摘も大きかった。
 総じてこじんまりとした研究会で、テーマの立て方もどこかで見かけた凡庸なものであるし、そろそろ安吾研究会の発表の仕方等においても転換期がきているのかもしれない、と思った。その後の懇親会でも次回の基調講演に誰を呼ぶか、会の政権交代の話もちらほら聞こえて、あらたな動きがあるのではないかと思われた。

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第10回研究集会


「2005年3月26日 坂口安吾研究会 印象記」
神谷 忠孝

 大杉重男氏の「偶像破壊のリスクとセキュリティ」は山本芳明の「〈文学的資産〉としての小林秀雄」(「文学」2004年11,12月号)をふまえて、安吾が「教祖の文学」で展開した小林秀雄批判の真相を再検討し、一方で自分の柄谷行人批判を説明しようとした講演。安吾が「教祖の文学」を書いた時点で、小林秀雄は「作者」としては死んでいたとしても「著作権者」としては延命し、自己の文学的資産のセキュリティを管理していた。だから「教祖の文学」は相手の安全装置を認めたうえでの批判であった。対象が不動でどんな批判にも影響を受けない「安全装置付他者」である。安吾は小林が権力を持っていたことに対立しただけで、これを近代に対する反近代ととらえることは過大評価ではないか、というような趣旨であった。
 これと関連して、柄谷行人は安吾が「日本文化私観」で偶像批判したことを過大評価して安吾という存在を偶像化したことを批判しようとした。その着眼はよいとして、「群像」評論新人賞の選者である柄谷は恩人であり、自分の柄谷批判は愛情の裏返しのようなものと述べたところは言わずもがなの感があった。安吾が「教祖の文学」を発表したあとの小林秀雄との対談「伝統と反逆」(「季刊作品」1948・8)で、小林が「誤解してゐるんで困るんだ」と言ったのに対し安吾が、「誤解ぢやないよ、あれくらゐ小林秀雄を褒めてるものはないんだよ」と応じたと同じではないか。大杉氏は「知の不良債権」(「早稲田文学」2001・1)をはじめとして、固有名を偶像化するポストモダン批判を展開している。腰くだけにならないよう初志貫徹してもらいたい。大杉氏の発言で重要だと思ったのは、安吾が転向していないことにふれ、小林秀雄が大正文学を支持したのに対し、安吾は大正的なものを切断しようとした。しかしそれは身振りであって、昭和という時代にあって安吾は、大正的なものを保持したのではないかと述べた。検討に値する発言である。  宮澤隆義氏の「時間・歴史・自由―坂口安吾の戦後評論から」は、表題とは違って、戦時下の「真珠」の同時代評、戦後の主要研究をふまえて「真珠」を読み返そうという内容だった。作品に日付を多用していること、死者たちに「あなた方」と呼びかけていることに注目し、伝聞と情報を組み入れながら、現在進行形のような方法で書いた安吾の時間意識に焦点をおいた発表。安吾は現代を歴史としてとらえる独自の方法を「真珠」で提示しようとしたという意見に新味があった。だが、安吾の「意識と時間との関係」(「涅槃」1927・3)をもちだしたところはわかりにくかった。宮澤氏の発言のなかで、「教祖の文学」における一人称が「僕」「私」「自分」という指摘したことが印象に残っている。
 時野谷ゆりさんの「『安吾巷談』の生成と方法」は、『文藝春秋』編集長池島信平が「安吾巷談」を企画したことで雑誌の発行部数を拡大させたことをとりあげた発表。普段は表面に出ない編集長の手腕に着目した点が新鮮であった。池島信平の安吾観や他のジャーナリストの池島論も視野に入れ、作家と編集者との連動性を問題にしようとした方法は今後のジャーナリズム研究に示唆を与えたと言える。質疑応答では時野谷さんへの質問、意見が多く寄せられた。将棋、囲碁の観戦記や「新日本地理」なども視野に入れ、編集者と作家の共同作業という見方も必要とする意見は傾聴に値する。作家を動かす編集者に視点をおいた今回の発表は他の作家にもあてはまるわけで、新しい研究方法として期待できる。
 文学研究がともするとタコ壺的になりがちな傾向をおびるとき、広い視野をもつ評論家の視点が提示された今回の研究会は意義があったと思う。今後も研究と評論の組み合わせというかたちを維持してほしいと願う。


「安吾という偶像を破壊するために」
鬼頭 七美

 「安吾の戦後批評を問い直す」というテーマのもと、研究集会が行われた。
 大杉重男氏の「偶像破壊のリスクとセキュリティー―「教祖の文学」の現代的射程―」は、氏が「早稲田文学」に連載中の「コピーライトについての試論」に基づく講演であった。氏のコピーライト(著作権)についての思考は、現代の言論空間において発言することのリスクとセキュリティーについて考えることであり、つまるところ、氏自身と氏をとりまく現代の〈批評空間〉についての自己言及的な思考に他ならない。従って、氏の語りは「僕のアイデンティティは文芸評論家である」という自己紹介から始まることになる。氏は、徹底的に偶像崇拝を批判したアナーキーな書き手であるところに安吾を読む快楽があると述べ、安吾の専門家たち(すなわち安吾研究会)の偶像崇拝ぶりを指摘した。その上で、一見アナーキーな安吾の偶像破壊の発言に潜むリスクとセキュリティを分析し、現代にもつながる問題であることを提示してみせた。大杉氏によれば、「教祖の文学」で言う「何をしでかすか分からない人間」とは自殺(死)の可能性への考慮がなく(「死」を回避した「生」)、その意味でリスクは縮減され、安全な存在である。さらに安吾は「作者」「作品」「著作権」の諸概念を放棄しており(税金闘争や競輪事件等)、これは自分の作品の管理を行う小林秀雄へのアンチ・テーゼとしてあると指摘した上で、この小林の〈資産〉管理主義が実は現代の柄谷行人の姿と重なると言う。映画「レフト・アローン」の書籍版刊行に際し、柄谷は自分を批判する鎌田哲哉の文章を拒絶し、鎌田は別にブックレットを出して件の批判文を載せることとなったのだが、安吾に批判されても余裕のある態度を示した小林と(両者の対談)、鎌田の批判に対し著作権を楯に対話を拒絶するという余裕のない態度しか示さない柄谷との懸隔には時代の違いがあるのだろうと推測し、現代の言論空間における論争の起こりにくさを考える上で、安吾の時代について考察することは有意義なのではないかと述べた。以上のような講演において興味深く思ったのは、「偶像」を問題にする大杉氏の語りにおける自らの「偶像」意識である。とりわけ、柄谷のかつての批評への愛情を表明し、柄谷を「文芸評論家」としての自分にとっての「恩人」と呼び、恩返しの意味で柄谷批判をすると述べる氏は、柄谷行人という偶像の崇拝者であることに自覚的である。大杉氏は、現在の自分の仕事を前提として話を進める関係上、自分の書くものが読まれているのかどうか、聴衆に知られているのかどうかを気にしていたが、これは言い換えれば、自分がどれだけ「偶像」なのかを確認する発話となっている。氏はこのことにも自覚的だったのだろうか。安吾の偶像破壊の発言からすれば、安吾研究会の面々も大杉氏自身も、安吾によって一蹴されることになってしまう。大杉氏の「文芸評論家」という自己規定、自己限定は、さらに、自己限定を拒否した安吾(「私は誰?」)とは対極の位置にいると言うべきだが、氏はこのことにも自覚的だったのだろうか。大杉氏の偶像(柄谷)破壊は、偶像崇拝と裏表の関係にあるわけだが、安吾と重ね合わせてみせた鎌田哲哉による偶像(柄谷)破壊は、偶像崇拝と裏表の関係にあるものなのか、安吾以上にラディカルでリスキーな破壊行為なのか。氏の考察・分析が、ここにまで及ぶものであるとき、大杉氏自らのリスクとセキュリティをも照らし出す批評となったのではないか。セキュリティを全解除したとき、大杉氏がどのようなリスキーな批評を展開するのかを読んでみたいと思った。
 宮澤隆義氏の「時間・歴史・自由――坂口安吾の戦後評論から」は、近年、歴史認識、歴史叙述という観点から捉え返されつつある安吾のテクストを、安吾の「時間」意識に即して分析しようという意欲的な試みであった。だが、その「時間」をめぐる議論は多分に抽象的、観念的であった。その上、発表内容は、表題に反して「現在」意識なるもののみを問題化しているように思われた。宮澤氏の発表を簡単にまとめると、「安吾にとって「現在を生きる」ということは、「現在」が潜在的に持っている諸可能性を見出して解放していくことを意味する」のであり、これを「真珠」や戦後の被災体験を綴ったいくつかの文章や未来についての安吾の記述にあてはめていくというものであった。抽象的思考それ自体は悪いものではないはずだが、宮澤氏の思考は、安吾のテクストを近視眼的に追いすぎる結果、一つのテクストを安吾の別のテクストの記述によって説明し解釈するというトートロジーに陥ってしまっており、着地点が見えないもどかしさを感じた。また、発表のなかで気になったことがある。宮澤氏は「真珠」のなかの「実際、真珠の玉と砕けることが目に見えているあなた方」という表現に注目し、「あなた方が生きていた現在において、砕けることが目に見えている点に僕の賞賛が寄せられている」と述べ、これを「現在において思考されている」から重要だと述べていた。これは、安吾の執筆時期や語りの位相を等閑視していると言わざるをえないのではないか。というのも、周知のように、1941年12月8日の真珠湾攻撃において、実は9名の勇士が戦死していたということが一般国民に報道されたのは翌年の3月6日であり、「真珠」は、この報道を受けて書かれ同年6月の「文芸」に発表されたものである。真珠湾攻撃をめぐる報道事実の時間差および「真珠」執筆の時間差を考慮するならば、「実際、真珠の玉と砕けることが目に見えているあなた方」という語りは、「あなた方が生きていた現在において思考されている」のではなく、明らかに「あなた方」の死を知る地点からの語りであるはずである。従って、「真珠」における「現在」とは、少なくとも、登場人物が行動している12月8日「現在」のほかに、大本営発表後の3月6日以降、「真珠」執筆時までのどこかに設定されうる「現在」=「真珠」テクスト内の語りの「現在」、安吾自身の「真珠」執筆時点の「現在」など、複数、想定しうるのではないかと思われる。しかし、宮澤氏が「現在」と言うとき、誰のどの地点での「現在」なのかを明示することはなく、テクストへの時間意識を欠いている憾みがあるように思われた(このことは、安吾の時間意識を見ていく際に、戦時下に書かれた「真珠」と戦後の評論と東洋大学時代のエッセイとを並列して参照していくというテクストの扱い方にも見られた)。「時間」や「歴史」を問題とする以上、今や語り(ナラティヴ)の分析を欠かすことはできないはずであり、自身でも挙げていた「真珠」先行研究においてもこの点はすでに踏まえられていたはずである。「歴史」を「現在」において「語る」ということについて、例えば、ドミニク・ラカプラ、高橋哲哉等を参照するなどして、宮澤氏自身の思考のアクチュアリティーを明示していくと、より面白い議論を展開できるのではないかと思われた。
 時野谷ゆり氏の「「安吾巷談」の生成と方法」は、「安吾巷談」(1950.1〜12)というユニークなテクストが、いかなる方法と生成プロセスを辿って生み出されたものであるのかを、発表媒体である「文藝春秋」の当時の編集長の戦略や時代状況を探ることで明らかにしようとする試みであり、今回の研究集会の趣旨文のなかの「同時代の文壇ジャーナリズムの中で自身をどのように定位し、自らの〈書く〉場所を確保していったのか」に最も正面から取り組むものであったと言える。「安吾巷談」は第4回「今日、われ競輪す」で1951年3月に第2回「文藝春秋読者賞」を受賞するのだが、時野谷氏によれば、この受賞の背景には、「文藝春秋」の当時の敏腕編集長・池島信平の時代への嗅覚の鋭さによる、ノン・フィクション性と娯楽性、読者の意見を反映する誌面作り等の重視という編集方針と、安吾の戦後の世相を捉える時代感覚と人間の本質を見抜く批評眼とから、小説家としてよりも随筆家、時評家として評価する池島の眼鏡に適った安吾の起用などとともに、折しも、GHQの占領末期にあって雑誌検閲の終了による抑圧からの解放感と、それまでの用紙難の克服という好条件とが重なったことが指摘できるという。さらにまた、「今日、われ競輪す」では、新聞や雑誌から間接的に知った事件を机上で論じるというそれまでの方法から一変して、時事的な話題について直接現地取材を行うという方法を取っており、この方法が当時の「文藝春秋」の編集方針と合致するものであったことをも指摘し、この後、この方法が定着していき、自らを「巷談師」と自称し、「巷談」の好評に対する書き手としての自覚と自分の資質を深めていく安吾の姿を浮き彫りにした。「安吾巷談」というテクストが誕生する背景を、このように、雑誌メディアと時代状況から多角的に分析していく試みは、これまでの安吾研究においてはなかったのではないか。とはいえ、いわゆるメディア論や読者論、文壇・ジャーナリズム論などの〈理論〉の水準からすれば、少々物足りなくも感じられた。というのも、時野谷氏は、常に「安吾」を主語として語り、安吾と安吾の周辺ばかりを(やはり)近視眼的に追いすぎており、「文藝春秋」の戦略や読者の反響というせっかくの視点も、有効な着地点へと持って行くことができなかったように思われるからである。「文藝春秋」の戦略を、ほかの雑誌メディアによって相対化する作業を経ることで、さらなる広い視野において時代状況を俯瞰することが可能となるだろうし、読者の反響の提のみで終わることなく、読者の声そのものの言説分析をすることによって、作家や編集サイドが読者大衆のどのような支持や欲望によって動かされていくのか、同時に作家や編集サイドがどのように読者大衆を形成していくのか、を明らかにすることができるだろう。それにはまず何よりも、いったん「安吾」を主語として語ることを禁じ手としてみるところから始めるとよいのではないか。
 今回の研究集会は、全体に「安吾」を主語として語る講演・発表であったように思う。個人作家研究会である以上、この傾向はやむを得ないのかもしれないが、しかし、対象を近視眼的に見ていくのみでは視野の拡がりに欠け、徒に偶像崇拝言説の大量生産に加担するだけになってしまう。「安吾」から目を離し相対化していく作業を通して偶像破壊を行ってこそ研究が活性化していくのでないか。安吾にのみ自閉しない、人文諸科学へと開かれた研究は、そもそも坂口安吾研究会立ち上げの趣旨でもあったのだから。

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第9回研究集会


「坂口安吾研究会・第9回研究集会 印象記」
宮澤 隆義

 今回の特集は「坂口安吾と〈天皇〉」。渡部直己氏と五味渕典嗣氏が各自発表を行い、その後で井口時男氏をディスカッサントとした自由討議がなされた。
 はじめに渡部氏が、「坂口安吾と天皇(制)」という題で発表した。「堕落論」における天皇制への指摘の鋭さを評価しつつ、『不敬文学論序説』(太田出版、一九九九年。以下『不敬』と略)で示した観点(天皇や皇族を単に描写しているか)から、安吾の「天皇小説」についての評価を行った。例えば「道鏡」は生身の人間と帝位の関係を描く小説としてみると、「魂」と「肉体」の二分法に由来するであろうその単調な描写において、到底評価できないと氏は述べる。さらに「坂口安吾―三島由起夫―島田雅彦」というラインを挙げ、総じて概念的図式性へと回収されてしまう陳腐な比喩や語彙を用いる、彼らの描写の貧しさについて指摘した。他方で氏は、谷崎潤一郎・中野重治・大江健三郎・中上健次らを、描写に対するフェティッシュな欲望において評価する。描写という全くもって理不尽なものに対して途方もないフェチでないと、小説 において天皇制を批判的に対象化することは難しいとした。だが安吾を評価できる点として、ある特定の概念(「なつかしさ」等)を点描する ことには優れている(特に自伝物において)と氏は述べる。また探偵小説において安吾が描きだす細部は、論理的に発見されるべくして描かれ ているためヴィヴィッドに機能している。そのような細部感覚と論理性とを無理なく共存させられる古代史物や巷談への安吾の移行は、彼の天 皇小説の描写法が抱えていた隘路に対する打開策だったのではないかと氏は位置づけた。
 次に、天皇と文学の関係が昭和と平成で異なるという点に論は移り、『不敬』でとったアングルが無効になりつつあるのではないかとの見解 が語られた。このような力学の変化を「フラット」化と呼びつつ、島田雅彦や星野智幸、阿部和重を取りあげる。特に阿部の『シンセミア』に おける、一種の「散種的引用」としての天皇家への言及(登場人物の「田宮家」の構成が天皇家のそれと対応している)について指摘し、こ れらは例えば安吾の「保久呂天皇」のアレゴリーとは違った「フラット」なレベルでの天皇への引用と言えるだろうと結んだ。  《自由討議》では、安吾は18世紀以前の小説を経ているので元々描写は「浅い」のだとする井口氏の示唆や、推理小説の扱いについての質問 等が出た。安吾の天皇小説の評価について上記のようにまとめることには賛否両論が予想できる。だが氏の論は、天皇(制)への批評の強度と 描写の問題が重なるとして考察した『不敬』の観点を一貫しており、評価としてはありうると私は思った。だが福田恆存も示唆しているように、 安吾の小説が「観念的」であるという指摘自体は、クリシェの反復であることは免れえないだろう。また、物語内容や対象へと干渉を起こして ゆく「描写」をそれ自体分析対象として提起してゆく点は魅力的であった。しかし、それはフェティシズムがあるかないかという話としてくく られてしまってよいのか、という点に疑念が残ったことも否めない。阿部の小説に関する鋭い指摘は、「フラット」という概念が情報のデータ ベース化(それは実体的なものではあるまい)と関連していることを鑑みると、「日本文化私観」における「文化」の扱いがそこに接合され うるのかどうかということが想起され、個人的に関心をひかれた。安吾自身の文章論(ファルス〜「文章の一形式」など)が持つ問題について は、また別に考察する必要があるだろう。
 続いて五味渕氏が、「ざわめく偽史たちの饗宴―再読・坂口安吾の古代史論―」の題で発表を行った。安吾の古代史論を一つの通史としてと らえようとすると、相互にズレや齟齬が見られる。だが、むしろそれらは消えていった対立や抗争などの「交通」が前景化させている点におい て、ベンヤミン的な実践を想起させるとして氏は評価する。特に「飛騨・高山の抹殺」で古代神話の分散や圧縮といった作用を読みこみ、その 抗争の舞台としての「ヒダ」を浮かびあがらせてゆく安吾の手つきには、記紀神話の「脱構築的な読みかえ」が遂行されているとした。そこか ら、安吾が戦後のこの時期に天皇家の物語を「脱構築」することに、どのような意味があったのかが論点となる。
 安吾が『新日本地理』の調査と執筆を開始した1951年当時は、日米講和=再軍備問題をきっかけに、天皇制の強化を狙う側も反対する側も、 自分たちにとって都合のよいキャラクターを備えた天皇を皇位に置こうとしていた。「チッポケな斧」などのエッセイからは、「旧帝国のシン ボル」としての天皇の復活に対して批判的な態度を表明しつつ、敗戦以後の歴史経緯と道程を振り返る―という安吾のポジションが読みとれる と氏は主張する。また、丸山真男と安吾の同時期的な並行性について指摘しつつ、安吾は敗戦を断絶としてとらえた際になされるはずだった 「秩序の再建」が「可能性」として潜む「未発の原点」において、戦後の憲法問題を考察していたのではないかと示唆した。  最後に「安吾、伊勢神宮にゆく」へと論は移り、氏は象徴天皇制下での天皇の「人気」にはいわば見た目の「スター性」が重要なファクター となってきている点を、安吾の叙述に読みとる。この意味で安吾は、戦中と戦後の断絶を問題化していたと言えるだろうとした。  《自由討議》では、渡部氏から「脱構築」的な読みは対象としての天皇を追認するものではないかとの質問が発せられたが、それに対し五味 渕氏は安吾の古代史論の持つ「まとまりのなさ」をそのように拾いあげる必要性について述べた。また、もっと安吾の「いいかげん」な面に注 目する必要があるのではないかとの意見も出ていた。個人的には安吾の史論と同時代の憲法論議を並列的に読むという氏の手法は興味深く、安 吾の文章を読んでいるだけでは描きだされない事象に光をあてる感があった。来歴を抹消した地点で作動する「スター性」(=「象徴」性)と、 渡部氏が述べた「フラット」化の問題の整合性・接合性についての考察は、「天皇と文学との関係」を考えてゆく上での、今後の課題であるだ ろう。
 私にとって今回の研究発表会で最も印象的であったのは、渡部氏が途中で「現在」における『不敬』の理論の無効化の可能性を述べたことだ った。実際の出来事との関係において自らの理論の実効性を測り直してゆく氏の姿勢には、批評があるべき姿を感じさせられた。ちょうど研究 集会の前日に皇太子妃雅子とその娘・愛子が撮影された「プライベート」的映像がマスメディアに流され、論題と現在起きつつあることの繋がり が意識させられていた時でもあった。安吾を論じることの「必要」について考えてゆくためにも、今回の会はすぐれて挑発的な機会となったと 言えるだろう。(2004.11.2)


「坂口安吾研究会第9回研究集会学会印象記」
三品 理絵

 渡部直己氏「坂口安吾と天皇(制)」は、そもそも「理論的」な「合理性」の人である安吾が、「堕落論」に見られるように〈天皇制〉への見事な批判者となる一方で、ことそれをエッセイでなく「小説」という形で表すとき、そこにいささか「不利」を生じるのではないか、との疑問を投げかける。実際〈天皇制〉を扱った「不出来」な小説の例として「道鏡」を挙げ、女帝の魂と肉体という観念的二分法の表現を、安吾は魂との対比なしに肉体そのものを描くことが出来ないのだとし(氏はそれを安吾最大の弱点だとする)、彼の本領が発揮されるのは「安吾史譚」「安吾日本地理」などの歴史探訪ものであること、推理小説仕立てで理論的に掘り下げていく方法が安吾の資質に合い、見事に成功しているとする。このとき、日本の「推理小説」は社会主義文学と結びつきが強く、安吾の資質のみならず〈天皇制〉批判を語る作品の形式として相応しいとの指摘が興味深かった。
 安吾の「不出来」な〈天皇制〉小説は、1946〜50年代頻出の「人間天皇」を題材とする小説群の中に位置づけられる。安吾の場合、人間の苦悩を描くための最上級の象徴として「天皇」が採用されているが、その「型どおり」の表現について、氏はここで、安吾から三島・島田雅彦に至るまでの、観念的二分法で〈天皇制〉を描く作家たちの表現的系譜を挙げる。一方、これに対して「細部感覚」にこだわる「フェティシズム」作家、鏡花・谷崎・中上健次らの表現的系譜を挙げて、彼等の方が〈天皇制〉を小説で描くにはむしろ有利なのではないかとするのである。例に挙げられた三島の「憂国」は、別の意味で「フェティシズム」の横溢した作品ではとの疑念もあるが、二つの〈天皇制〉をめぐる表現法(井口氏はそこに〈天皇制〉への愛の有無を見、安吾に中上のような〈天皇制〉への執着はないと指摘。渡部氏もそれに賛同)は、対比によって各々の特色が明確になるように思われた。ただ「細部感覚」については、渡部氏も安吾にそれがないわけではなく、ただ全体の結構を翻すほどの細かさ(!)はないのだとされるが、作品毎に詳細な検討の必要があるのではないか。鏡花のそれを「描写」と呼んでしまっていいのかという点にも若干疑問がある(「細部感覚」の極めて巧緻な表現法の極みであるのは勿論)。その点に絡み井口氏が挙げた「物語」/「説話」の表現方法としての差違、安吾の資質と「語る」/「描く」の差違が示唆的だった。
 一方、五味渕典嗣氏「ざわめく偽史たちの饗宴──再読・坂口安吾の古代史論」は、渡部氏が、安吾が天皇制を書くとき相応しい形式(方法)とした史論・地理論について、同時代の思想的背景とつきあわせながら読み直していこうとするもので、渡部氏がその思考内容そのものよりも〈天皇制〉を描くための表現に焦点を当てているのに対し、五味渕氏は、当時の〈天皇制〉をめぐる動きと連動した安吾自身の〈天皇制〉観の変遷を見ていこうとしている。たとえば、安吾の「物的証拠」へのこだわりが、仁徳天皇陵発掘をめぐって考古学的タブーということが当時実際に行われていたことと連動していることや、過去を封じ込めて新生〈天皇制〉を発動させようとする復活論者の昭和天皇退位論・皇太子即位希求論の盛り上がりと「安吾日本地理」連載時期との連動。そして1946年3月の「大憲章」発令をめぐる丸山真男言説との呼応。  渡部氏が挙げている、まさに1946〜50年代の「不敬」文学──人間天皇を描く文学──頻出とも当然響き合っているに違いない一連の世相を、詳細に資料から辿っていく発表は重厚で、五味渕氏が「それぞれが極めて精巧なテクストの読みの成果であることにこそ注目したい」とした安吾のテクストについて、氏自身がこれまた「精巧な読み」を目指そうとされたのであることがうかがわれ、どのトピックについてもそれぞれ興味深かった。ただ、大量の資料を目で追うことと濃密な内容を耳で追うこととの間で、すべての内容を辿るのは正直言って結構きつかった。また、質疑でも出ていたが「ざわめく偽史たちの饗宴」という魅力的なタイトルであったにも拘わらず、実際の発表での偽史についての言及が少な目で折角のタイトルと響き合いきれなかったことは残念だった。氏が掲げた三つのトピックのどれか一つを中心に据えて、その中で安吾が偽史をいかに採用していたかを見ていく形でも良かったのではないか。氏は当日体調の不調という悪条件もあったことと聞くが、論文化される折を楽しみに待ちたい。発表冒頭に提出された、通史としてのまとまりに齟齬する飛騨・高山王朝に関する部分に関しては、これも質疑で出たが、氏が発表全体として辿っていた安吾の〈天皇制〉観の変遷の枠から逸れてある種の「思い入れ」が出ている部分もある。井口氏指摘の安吾の〈天皇制〉への執着の有無の問題と併せて、複雑な内実の層が偽史の具体的な検討を通じて引き出されてくるなら面白いと思う。やはり質疑に出た「真珠」をどう位置づけるかという問題も、〈天皇制〉をめぐり表現形式とそこに盛り込まれた思考の変遷とをそれぞれ掘り下げて考察された、これら二者の対照的な発表における考察を踏まえて今後再考されるべきだろう。

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第8回研究集会


「基調講演・印象記」
武田 信明

 成田龍一氏の講演は、題目であった「安吾と歴史」の関係にとどまらず、その背後に広がる「歴史学」と「文学」という概念の問題、あるいは「歴史学」と「文学」の関係にまでおよぶものであった、と私は感じた。端的に言うなら、成田氏の講演は基本的に「歴史学批判」であったのだが、それは同時に「文学研究」へ適用されるべき内容でもあったということである。以下成田氏の講演の私なりの理解を二点の問題点として記すことにする。  最初に成田氏が提示したのは、歴史学の領域における戦前と戦後の断絶と反復の問題である。戦前の歴史学の三派鼎立の状況は、敗戦によってドラスティックに改変される。しかしその一方で、戦前の皇国史観と戦後のマルクス主義史観という一見対立的な史観が、その言説において奇妙に酷似してしまう。成田氏は、それらの事態を具体的な資料を示しながら解説した。まず第一の問題がここにあっただろう。たとえば明治維新や敗戦といった歴史上の転換点を、明白な切断としてとらえるのか、それとも持続としてとらえるのか。それは「学派」といったパラダイムの問題でもあり、転換期を生きる個人の問題でもあるだろう。では安吾の場合はどうなのか。安吾が戦後において流行作家となりえた事実は、彼が戦後という切断後の新しい作家であったことを意味するであろうし、一方で彼は戦前からすでに作家だったのである。それは、安吾は歴史の変化に敏感に反応した作家だったのだとか、戦前から一貫した思想を持ち続けたのだ、といった安吾の歴史認識に白黒をつけようという問題意識とは若干異なるだろう。なぜなら転換期の前後における断絶と反復の事態は、きわめて容易に同時に成立しうると考えられるからである。成田氏が指摘した家永三郎の言説と皇国史観の学者の言説の酷似は、歴史が反復することを示しているだけでなく、酷似しているにもかかわらず埋めることのできぬ断絶があることを前提としていたはずである。  だがより興味深かったのは、成田氏が上記の断絶と反復を問題にしながらも、その問題意識の根幹に疑義を呈していた点である。それは皇国史観やマルクス主義史観といった流派の分類そのものが、便宜的なものであり、とりあえずのものでしかないという指摘である。これを第二の問題点と呼ぶことにする。一言で皇国史観といっても、その内実はきわめて多様であると氏は述べる。その多様性の中で、ある歴史的言説が家永三郎のそれと重なるという事態が生じるのである。それゆえ歴史の学派を分類するに際しては、対象とする歴史史料の属性、歴史を切り取る際の思考方法、学者自身の歴史的叙述などいくつかの観点から子細に検討すべきだというのである。これを聞きながら考えていたのは、昭和初期の小説家たちが「過去」を素材とした作品をさまざまな形で執筆していた事実である。たとえば、島崎藤村の「夜明け前」と太宰の「右大臣実朝」と安吾の「イノチガケ」を一括して歴史小説だと考える視点も必要であろうし、逆に成田氏の説にのっとって、対象とされる時代、叙述のされ方、話者の介入の有無などを多角的に考えることも必要かも知れない。あるいはまた安吾だけに限定するとして、彼の書き残した複数の歴史小説は、一括しうるものなのかどうか。いやそもそも安吾の作品を歴史小説とそれ以外と分類すること自体安易だというべきではなかろうか。成田氏の講演の間、そのような雑念が脳裏をかけめぐっていた。  成田氏の講演内容は、1940年代における歴史学の状況から安吾を見るというというものであった。そのために氏は、まず歴史学の戦前前後における在り方を概括した。だがそれは、論の前提を門外漢の聴衆に向けて簡明に示すといっただけのものではなかったように思う。歴史認識を語る際に歴史学批判を同時に語ったのである。歴史学は過去を対象とした学問である。それは小説作品や詩作品といった過去をあつかう我々も同様なのではないか。歴史学はその名の中に「学」を含みこんでいることに自覚的である。だが「文学」「文学部」なる名称は「学」の意識が曖昧である。研究の対象そのものに「文学」として「学」が組み込まれているからだろう。文学を研究し、文学に関する仕事を生業とする私には、成田氏の真摯さに考えさせられることが多かった。講演後の活発な自由討議や懇親会での議論も含め充実した半日であったと思う。


「研究発表 所感」
近藤 周吾

 対照的な二つの発表であった。両者ともいわゆる歴史小説を材に選び「坂口安吾と歴史」という特集に切り込んでいったが、一は歴史を相対化する方向へと展開し、一は歴史=歴史小説だといわんばかりに沈潜していく。前者からは支離滅裂な安吾像が、後者からは生真面目な安吾像が微かに見え隠れしていたように思う。しかし、おそらく両者ともに〈安吾〉であることにはちがいがない。
 奥山文幸氏の「安吾の史眼−「イノチガケ」を中心に−」は、坂口安吾が『吹雪物語』以後いかに再出発を果たしたか、そして、それがやがて「日本文化私観」「真珠」「白痴」へと発展する核の形成を「イノチガケ」一篇に求めようとするものであった。氏の認識によれば、安吾は戦中戦後を通して抑圧に対する独自の姿勢を得たといい、「イノチガケ」における歴史イメージにおいてもそれは〈観念に過ぎないもの〉として、あるいは歴史小説という枠組みから〈逃れ去るもの〉として存し、それらは要するに何らかの権力に服従しない精神の自由によって支えられているという。このことを解く鍵として、氏は〈並列〉という方法に着目した。ここでいう〈並列〉は、語本来の意味に反し、同一レベルの並列を必ずしも意味しない。むしろ異なるレベルにあるものを配置する方法のことを指している。一例をあげれば、一方においてザビエル−マストリリ−シローテといった〈血脈〉を描く際には一人物を特権化せず雑多さを表す。にもかかわらず、他方においては〈情熱〉を描出する際、一つの視点によって死に方、殺され方に焦点が当てられる。また別の例をあげれば、為政者の〈殲滅〉の欲望と、殉教者の〈情熱〉が奇妙に混在してもいる。  惜しむらくは、強調点が〈何らかの体系、権力に服従しない切り取り方〉という所へ収斂した為、「イノチガケ」自体の孕むこの魅力的な〈並列性〉の指摘が、氏の意図とは裏腹に、弱まって聞えてしまったことである。 第一に、『吹雪物語』との比較がなかったために、「イノチガケ」が安吾の原点だという再三の主張に説得力が欠けてしまった。『吹雪物語』の〈並列〉と「イノチガケ」の〈並列〉の類同性と差異は奈辺に存するのか。このことが基本的な手続きとして明らかにされるべきだった。第二に、「イノチガケ」と「白痴」を単純に比べてしまっていいのかという疑念が浮かばざるをえなかった。一言に〈並列〉といっても、両者の〈並列〉が同じものとは思えないし、また同じ効果を生むものとは思えない。両者の差異に目をつぶってはならないだろう。最後に、安吾の戦時抵抗を強調することは、抵抗言説と時局的な言説との〈並列〉を見失ってしまうのではないかという疑念も残った。同時代の言説とのすりあわせ、比較が要請されよう。その意味で、保田與重郎の散華の美学との絡みをもう少し聞いてみたかった。
 しかし、このように厳密さを求めた上で、〈並列〉を鍵に安吾を読み直すことには可能性があると思う。たしかに、安吾のテクストにはさまざまな〈並列〉が〈並列〉されている。まずは表現論的な観点から手を着けてはどうであろうか。
 原卓史氏の「黒田如水と坂口安吾」は、戦前/戦後の安吾の変化を辿る上で貴重な〈如水もの〉についての発表であった。金子堅太郎や徳富蘆花、山路愛山などの如水言説と対校させつつ、典拠をつきとめていくというトリヴィアルかつ禁欲的な研究方法に拠りつつ、安吾テクストの生成過程を明らかにしていく作業は刺激的であった。動もすると、安吾研究者の多くは批評家気取りで、かかる地道な仕事を軽蔑する悪しき習性があるが、最近の若手の研究者によって安吾の歴史小説の緻密な研究がなされることは喜ばしい。今ここに配布資料全枚を再掲できれば早いのだが、それができない以上、ただその労に賛嘆するばかりである。
 ところが、細かい点で気になるところが少なくなかった。第一、資料間の表現の一致度が小さい。内容面では一致しても、表現レベルでは必ずしも一致しない箇所が多いが、これは安吾の裁量による書き換えの結果か、それとも別の典拠がまだあるかもしれないと判断するのか。第二、『島原の乱』構想と〈如水もの〉を切り離す旨の発言は、作業仮説としてか、それとも何か確証があってのことなのか。確証なしに、非関係性を指摘するのは厳密さを命綱にする氏ならば安直の謗りを免れない。第三、「黒田如水」では秀吉家康の評価が高く、如水の評価が低いのに対し、『二流の人』では価値評価の二項対立が揺らぐ旨の結論に至ったが、なぜ揺らぎ、そこから結局何がいえるのか。また、価値評価の高低は厳密に決定できるのか。「二流」というレッテルを貼りながらも、評価しているというふうに捉えられなくもないのではないか。たとえば「狂人遺書」では〈狂人〉に対して切々たる愛情が注がれるという例もある。安吾にはそういう事例が多いが、『二流の人』の人物評価は截然と分かちうるのか。第四、徳富蘇峰を安吾が評価するのは戦前/戦後の不変を評価するものとの憶測は妥当か。蘇峰が単に微に入り細を穿つ博識の持ち主だったからというのは安易に過ぎようか。第五、わかりきったことだろうが、『二流の人』ではやはり九州書房版と思索社版との比較を行ってほしい。それから、安吾の〈秀吉もの〉すなわち「狂人遺書」までをも視野に入れてほしい。黒田如水の名前に拘泥するあまり、周辺からの影響がもれる恐れがある。蛇足ながら、そこには『島原の乱』も入るだろうというのが私の当て推量である。いずれにせよ、安吾の歴史小説全体の典拠の全貌=大局(データベース)を意識した上で、典拠確定を行ってほしいというのが私の希望である。第六、そこには当然、立川文庫に始まり、時代劇、映画、講談などの大衆文化の影響も見逃せないはずである。ここまでいうと目が眩みそうだが、安吾歴史小説研究の大家たらんことを嘱望するがゆえの愚見として了とされたい。(了)

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第7回研究集会


「池田浩士氏「ナチズムの視線で読む『日本文化私観』」私観」
三谷 憲正

 私の狭い個人的な関心の領域からは、池田浩士氏といえば『[海外進出文学]論・序説』(インパクト出版会、一九九七)の著者であり、また『ドイツ・ナチズム文学集成』(柏書房、二○○一)の編纂者として聞こえていた。
 講演で、池田氏はブルーノ・タウトの閲歴をたどる。ドイツ表現主義の建築家・タウトはドイツでヒトラーが首相となるに及んで、モスクワを経由して日本へ亡命したことは、井上章一著『つくられた桂離宮神話』で知ってはいたが、ワイマール共和派の一員であり、バイエルン・レーテ共和国の建築大臣に任命された筋金入りの革命家の一人であったことは今回の話で教えられた点であった。
 安吾の「日本文化私観」(『現代文学』、一九四二)は無論、ブルーノ・タウトの同名の書『日本文化私観』(森儁郎訳、一九三六)への反論として書かれている。しかし、双方の主張を検証してみると、意外にもタウトの述べている「機能美」と、安吾が「日本文化私観」で言っている「必要の美」とはさほど違っていないのではないか、とは提起する。一例として安吾の称揚する「小菅刑務所」(現東京拘置所。設計は司法省営繕課・蒲原重雄、1930〔昭5〕年)は実はタウトの主張した表現主義建築の代表的な建築物なのだという。とすれば安吾はタウトのどこに批判の矢を向けていたのか。それは、タウトを利用して「伝統回帰」を目論む勢力に対する批判というよりはむしろ、タウト的に美を位置づけようとする志向、すなわち持ち上げられ過ぎた「文化」を生活の眼差しの次元に引きずり下ろそうという試み(文化の脱特権化)だったのではないか、と推測される(と氏の話を理解したのだが)。しかし、後段で触れるが、やはり第一義的には作られた「伝統」への「回帰」を批判する点に安吾の照準は合っていたように私には思われる。
 氏は「20世紀の文化的前衛たちが目指したもの」として、「(1)だれもが表現主体となる」「(2)失われた共同性の回復」「(3)新しい表現技術による新しい感性の開発」の三つを挙げる。おそらくナチズムがそれらを吸い上げる形で再編し収奪していく様相を、氏の講演は描きたかったように私には聞こえた。もしそうだとすれば、それはまさにそうなのだ。「近代の超克」とは、共同体から切り離された個人および断崖に向かう個人主義の克服がその根底にモチーフとしてわだかまっているはずだからだ。その乗り越えは一方ではコミューンを目指す共産主義としてロシアに出現し、また一方ではナチズム(国家社会主義=Nationalsozialismus)として、あるいは日本では「五族共和」や「満洲国」となってその姿を顕現化した。戦前・戦時を席巻する「日本主義」とは過去へと遡る先祖帰り≠ネどではなく、実は新しい未来≠仰望する「近代の超克」としての「ポスト・モダン」ではなかったのか。当時のさまざまな雑誌や新聞に頻出する「世界史的」というタームは、とりもなおさず西欧的近代の限界、すなわち共同体から切り離されたバラバラの個人の集合からの行き詰まり、を打開する方途して見いだされた集団のアイデンティティを志向する「伝統」であり、「東洋」の発見を意味していた。
 我々の父祖たちが二一世紀の子孫に残した膨大な負の遺産としての「大東亜」―。あるいは明治維新の行き着いた先の袋小路としての「大東亜」―。もし、安吾が「日本的ファシズム」に、高村光太郎とは異なったスタンスを保持することができたとすれば、それは画餅のように描かれた如何 にもそれらしい「共同体/共同性」対する安吾の底知れぬ寂寥に貫かれた心象風景の故ではなかったか。おそらくこのことは、池田氏の講演に踵を接して関谷一郎氏が発表した「国家の境界/個人の輪郭」で言われた、安吾という作家の特徴は制度化されず、収斂されず、一元化を拒否する作家 として捉えるべきではないのか、という提言とも関連するかと思われた。  ともあれ、今回池田氏のお話を直接聞くことができ、蒙を啓かれ、かつパースペクティブの拡がりに快楽を覚えたのは私一人ではなかったろう。


「<坂口安吾研究会・第7回研究集会(後半部)>印象記」
石月 麻由子

 前回に引き続き「坂口安吾とナショナリズム」という特集テーマの下、関谷一郎氏と押野武志氏がそれぞれの関心・問題意識から研究発表を行った。
 まず、関谷氏の発表では、氏が安吾に対して抱いてきた「分からない」という感覚が、特権的体制や一つの思想に収斂されず、決して整序化されないテクストの特質(「スキゾ型」という呼称が用いられた)に起因するのではないかとした。そこで、取り上げられた作品は「真珠」であった。関谷氏は、真珠湾攻撃の感動を率直に語る「僕」と趣味世界に没頭する「ガランドウ」とをやや図式的に対比し、国家・民族レベルのアイデンティティと個人のアイデンティティとの結節点・分岐点に注目する。ここで看過できないのは、書き手自身のポジショニングの問題であろう。作中の「僕」と「ガランドウ」とを対置した場合、そのどちらにも与しない安吾のありよう、物事のズラし方は、一方で「分からなさ」(という魅力)にも通ずるが、もう一方で、太宰治の志賀直哉批判とも重ね合わせられる。氏によれば、志賀直哉の世界は自己完結(閉塞)によって個我の輪郭を明確化しようとする「日本(人)」の姿そのものであるというが、彼を徹底的に拒絶する太宰を突破口にして、ポジション(アイデンティティ)を敢えて明言化しない「脱特権」的な安吾を浮き彫りにする可能性が提示された。安吾・太宰・志賀の名前が出たことで、会場からは「日本人」的特質の最大公約数的作家として果たして志賀が妥当かという根本的な問いや小林秀雄の歴史概念との関わりについて問う声が続いた。前者の問いに対しては、外国人に対峙した時の一般的な「日本人」のふるまい方を例に説明がなされたが、消化不良感は否めなかった。後者に対しては、出発期において志賀的な<閉塞−自己明確化>によって自己救済を図った小林が、昭和十年代には複雑化した多元性を見せるようになるとした上で、一元化しない安吾と多元化した小林との近似的様相、根源的異相が示唆された。しかし、一筋縄ではいかない問題の性質からか、その内実の分析・実証に至らなかったのは残念であった。また、「真珠」の考察では、近年の論文の成果が反映されていないようであったが、「真珠」に関する論考はむしろここ数年で飛躍的に増え、考察も深化した。個人的な希望としては、それら最新論文を踏まえた上で、太宰の「十二月八日」や「如是我聞」を捉え返して欲しかったと思う(安吾にも志賀直哉批判は多数有)。併せて、後の《自由討議》では、同時代作家たちの歴史観および言説を再検証した上で、安吾のナショナリズム(批判)の有効性を改めて布置していく作業の必要性を痛感した(その際、安吾の語勢に振り回されない警戒心が要求されると関谷氏の発言もあった)。
 続く押野氏の発表は、「安吾と戦後詩」という、一見すると容易には共通点を見出し難いテーマであったが、「荒地」派詩人を代表する鮎川信夫や田村隆一が、戦後、多くの海外推理小説の翻訳・出版に携わっていた事実(新津市文化振興財団編『坂口安吾蔵書目録』にあたってみると、A・クリスティ/田村隆一訳『三幕の殺人』(早川書房、昭和26・2・25)一冊のみ確認できた)を提示しつつ、安吾の探偵小説との比較検討を展開されており、その着眼点は大変興味深いものであった。まず、氏は近代文語詩から口語自由詩、そして戦後詩への変遷が、定式化された語法や詩概念、さらには日本的叙情性の「殺人」によってなされたと前置きをした。そして、<探偵=犯人>という推理小説的図式を重ね合わせながら、戦後派詩人が一切の叙情性を断ち切ることによって詩的源泉を得たとするならば、「詩」を殺した犯人こそ詩人その人であり、この「殺人」によって詩の誕生が促がされたという逆説めいた構図も成立つ。それは、戦争=無意味な大量死の記憶が生々しく残存する中、個別的な死者/生者の錯綜した関係を表象しようとした戦後派詩人と、安吾の戦後探偵小説における「死」の表象の析出へと連結する。また、戦中にはプロパガンダ的に受容された宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」のパロディとして「肝臓先生」作中詩を捉え、氾濫する紋切型の詩情をファルスによってズラした(「殺した」)という指摘、あるいは記述主体(とそのイメージ)までも作品内に過剰に取り込んでいくような「不連続殺人事件」の「叙述トリック」の分析は、戦後派詩人の詩的戦略との通底性を浮かび上がらせた。以上のように、各章での論証には首肯し得る点も多かったものの、それらを連結させるものが見えにくく、今ひとつ焦点が絞りきれていなかったように感じたのは私だけであろうか。個人的には、戦前の「牧野さんの死」等に見られるような安吾の<歌の別れ>が思い出され、その意味で、「ポエジー殺し」として戦後詩との相同性を取り上げた押野氏の発表は大変示唆的であった。なお、安吾の探偵小説方法論における具体的な<戦後性>については今後の課題とされるに留まった。《自由討議》の中でも、ナショナリズムや軍国主義の問題を思索するにあたって、イデオロギー装備の手法として立ち現れてくる<ポエジー=美学化>、そしてその背後に暗示されている<死>という切り口は、看過できないものであるとの意見も出た。さらなる論究を期待したい。
 全体的に和やかな会の中、3人の発表者がそれぞれ安吾研究者ではなかったことで、却って専門家では認知し得なかった(且つ、及び腰になってしまうような)問いも生まれ、自らの認識を改めて質していくことが肝要であると気づかされた。

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論集刊行記念合評会


「合評会に参加して」
近藤周吾

 地方在住の大学院生が、中央へ出かけていくには複数のインセンティヴが不可欠であるが、第6回研究集会は翌日には合評会もあるということで楽しみにしていた。合評会は『越境する安吾』の論者たちの生の声が聞ける格好の場だし、それぞれの論と論の”間”にある何かをうかがい知ることもできそうだと期待したのだった。実際、それは期待通りであったといっていい。参加者は15名とやや少なかったものの、執筆者とそうでない人が半々だったのが幸いしたか、すべての出席者が積極的かつ活発に発言し有意義な会であった。そこでは批評家か研究者か、先生か学生かといった区別は関係ない。ただ思ったことを腹蔵なく言うだけである。これは恐いことだが、しかし、安吾研究会という看板を掲げる以上、当然のことともいえよう。
 さて、私が特に印象に残ったのは、「侵略される安吾」というキーワードである。これは物騒な用語だが、要するに、非プロパーに論じたいと思わせる何かが安吾にはあり、また、これまでのプロパーによる研究は時にすぐに突き崩されてしまうほど防備が薄いということでもある。厳密にいえば、両者の意味するところは異なるが、これからの安吾像が、専門家/非専門家、批評家/研究者、大御所/若手などの一切の区別を排したところから一から新しく始められるべきだという意味で、私などは好もしく思った。「次号の特集は『侵略される安吾』だ」との軽口も飛び出したこの会は、予想以上に愉快な場であった。いわゆる学会では得ることのできない示唆も少なからずあった。惜しむらくは、時間延長をしたにもかかわらず、すべての論文の批評がなされなかったということだが、それだけ議論が白熱し盛況であったということで、今回はあえて不問に付すこととしよう。

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第6回研究集会


「坂口安吾研究会第6回研究集会(前半)への私見」
杉浦 晋

 特集テーマ「坂口安吾とナショナリズム」に即して、松本健一氏が基調講演を行った。氏は、昭和初年代のデカダンスをくぐり抜けた保田與重郎、亀井勝一郎ら日本浪漫派の人々(太宰治も含まれる)、また北一輝、大川周明、石原完爾ら東北地方出身のナショナリスト達(安吾の父・坂口仁一郎、また東北地方に多くの信者を擁した大本教の出口王仁三郎も含まれる)との対比、というよりむしろ諸々の共通点の殊更なる強調において、卓越したナショナリストとしての安吾像を構築してみせた。用いられた主要なタームは「肉体」。たとえば安吾の合理主義的思考は、戦争という危機に瀕して(危機をもたらしたB29の機体と同様に)美しく際立つ「肉体」の、生き延びようとする必死の意志に根拠づけられていたがゆえに、知性に自閉した近代の個人主義を超克し、古典美への回帰といったロマンチシズムを免れ、ファシズムにつながりうるようなパトスを内包しつつも、一国の利害に視野を限定された狭義の「国家主義」を脱して(氏によれば、「肉体」に国家はない、のだそうだ)、より高次のナショナリズムに連なるものとみなされた。
 これは、柄谷行人氏による「堕落」という「倫理」の抽出を主な起点として構築され、最近ではアナーキストの呼称が与えられもしている、近年の研究史の一規範をなす脱・共同体的、反・国民国家的な安吾像とは、およそ対極を目指したものと受け取られた。ただし、共に「構築」された「像」であるという点ではもちろん同じであり、聴衆にそのような研究史の相対的な把握を促すほどには、氏の講演はまず挑発的であった。
 しかし、「肉体」的なナショナリストというにせよ、「倫理」的なアナーキストというにせよ、いずれかの「像」につながる要素のみが、安吾の諸作品からやや恣意的に抽出されているという印象は否めない。むしろ、こうした対極的な結像を促す(少なくとも)二つの方向性が、互いに互いを不断に相対化しているというのが、安吾作品の常ではないのか。こうした観点から、筆者は「堕落論」「白痴」の具体例に即して質疑をなしたのだが、生来の訥弁ゆえよく意を通じるに至らず、もって氏から有意義な応答は得られなかった。ただ、応答の中で「庶民」「土俗」といった言葉が、「肉体」も「倫理」も共に包括する不気味なタームとして不意に持ち出されたことは、澱のように記憶に残った。
 山口俊雄氏は「「マルスの歌」から「黄金伝説」まで―石川淳とナショナリズム」と題して研究発表を行った。石川が戦時中から戦後すぐにかけて発表した小説を主な対象として、それらの緻密な読解からボトムアップされた立論は、巨視的なフレームの先験性が目立った松本氏とは、一見対蹠的であった。しかし山口氏にも、より慎ましくこそあれ、石川や安吾の「ナショナリズム」は、ほとんど「ナショナリズム批判」として解釈されるべきだという先験的なフレーム(松本氏よりは柄谷氏寄りの)は、やはりあったように思う。そのため、たとえば石川の戦時中の作品について、素材レヴェルでの不可避的な時局迎合(古典文学や「伝統」への取材)がまず指摘されてよいかとも思われるのに、そうした素材がインターテクスチュアルに重層されているという点をのみ前景化し、それを「ナショナリズム批判」の一方法として評価するという論法が目立った。戦後の発言を基準としてそのように評価することは可能だろうが、戦時中の他の文学者の営為、また読者の受容を基準とした場合、果たしてそれはよく成り立つのか。やや疑問に思われたことであった。  これは自戒も込めていうのだが、この種の評価をなすためには「批判」、そしてもちろん「ナショナリズム」の含意について、充分な吟味が必要だとつくづく感じた(後者については、さすがに松本氏は周到にそれを試みていた)。さもなくば、石川の「ナショナリズム批判」がパフォーマティヴで、安吾のそれがコンスタティヴだという氏の総括も、必要な歴史性の裏打ちを欠いた評価になりかねないと危惧されたのである。
 ただし、上記の点をとりあえずカッコに入れて、石川作品の読解ぶりに注目するなら、殊に考証面において、氏の発表はまことに創見に満ちたものであった。また安吾作品との対比においても、「無尽灯」と「白痴」を女性に対する主体性付与の有無に注目して対比するなど、興味深い読解をいくつも試みていた。発表時間の制約のため、それらの多くが口頭で展開されることなく、レジュメ上での指摘に留まったことが惜しまれてならない。
 質疑応答のうち、松本氏の講演に関わる一部については先述した。補足するなら、一連の討議の過程で、氏の立論が「肉体」と「庶民」「土俗」を連結する強固なフレームに即していたことに加え、井口時男氏による的確なアシストもあって、更に「アジア」「前近代」「主体化以前」「無抵抗」「女性」(太宰はマッチョで、安吾はフェミニンなのだそうだ)……といったパラディグムが、そこに内包されていたことが明らかになった。この瞠目すべき開示をふまえた議論が尽くされなかったのは、何とも残念であった。なお山口氏の発表については、「坂口安吾研究会」という場のゆえか、直接の質疑はほとんど寄せられなかった。けだし「石川淳研究会」の発足を鶴首すべきなのであろう。 (2003・1・9)


「第6回坂口安吾研究会 研究集会印象記(後半)」
原 卓史

 後半は川口奈央子氏と土屋忍氏の発表であった。
 川口氏は坂口安吾の歴史小説に興味を持って研究に取り組んでいるという。川口氏は、「イノチガケ」をキリスト教の広まりと教徒の受難の歴史を描いた作品として捉え、特徴として前半では漢語の多様を、後半では史実とはことなる安吾の解釈を挙げている。「死と鼻唄」「真珠」の分析を通じて安吾のドストエフスキー受容を析出し、死んでも尚潜入する宣教師の姿はドストエフスキー『白痴』の影響のもとに生まれたとする。また、宣教師に対する処刑すなわち穴つるしは昭和初年代のマルクス主義者たちへの拷問と一致することを明らかにした。さらに殉教した切支丹に対して小林多喜二を除く転向した共産党員に対する批判を指摘した。切支丹にも棄教者がいたことはパジェスの『日本切支丹宗門史』に記されているが、安吾は殉教者のみをつらねて、棄教しなかったというイメージを故意に作り出したのであり、それが転向者へ向けた批判となっているという。結論として「イノチガケ」が転向批判小説であることを指摘した。
 会場からは(1)ドストエフスキーと転向の問題とがどう関わるのか、(2)マルクス主義者にだけ語るという発想はおかしいのではないか、(3)どうして転向批判小説と言えるのか、(4)安吾は自分の信念を守ったものとして宣教師たちを見ていたのではないか、また共同討議の中で肉体への執拗な拷問と戦後の無抵抗ぶりとの分裂をどうとらえるのか、などの質問が寄せられた。発表者自身未だ整理しきれていなかったのか、緊張していたためか、(3)に対して安吾が「イノチガケ」を書いた時はころばないで欲しいと考えていたのではないかという回答を除いて要領を得ないものが多かった。「イノチガケ」をドストエフスキー経由で解釈すること、昭和初年代のマルクス主義者の転向問題を絡めたことなど、興味深い指摘があっただけに、質疑の中で解消されず消化不良の感が否めなかった。また、川口氏は「後篇は主に新井白石の「西洋紀聞」をもとにしてつづられている」と指摘しているが、典拠に就いては拙稿「「イノチガケ」論」(「無頼の文学」1998・10)や、大原祐治氏「ひとつの血脈への賭け―坂口安吾「イノチガケ」の典拠と方法」(『坂口安吾論集1 越境する安吾』ゆまに書房 2002・9)で『西洋紀聞』以外のものが特定・推定されており、先行研究への態度が必要なのではあるまいかとも感じた。
 土屋氏は作家のアジア体験を研究テーマにし、北原武夫、岡本かの子、開高健、山田詠美などの作家を扱ってきた。土屋氏は、坂口安吾の作品の中にソ連、中国、フィリピン、ビルマなどアジアの地名が表象されるようになるのは、一九四五年以降のことであるとし、まず復員兵を扱った「淪落の青春」と「退歩主義者」を取り上げた。主人公たちがアジアでの生活と帰国後の生活とを対比し、ヨーロッパではなく「土人の生活」を選びたいとする思考(=退歩主義者)を持つ主人公たちにとってアジアは親近感を覚える場であったとする。次に「戦争論」、「野坂中尉と中西伍長」、「宝塚女子占領軍――阪神の巻――」、「もう軍備はいらない」を扱い、安吾は世界の動向を射程に入れつつ日本が侵略したことと占領されていることを、すなわち占領の主体と客体とを論じたことを指摘した。そして、戦後アジアに対して「加害者兼被害者である」という認識を例外的に示し、かつ再軍備に反対した作家として安吾と阿部知二とを比較対照し、阿部が浪漫主義批判(「再軍備・文学」)を展開したのに対して、安吾は無抵抗主義者(「もう軍備はいらない」「魔の退屈」)であることを示した。さらに、安吾の無抵抗主義=退歩主義がインドのガンジーの非暴力的抵抗を経由したものであり、世界を単一国家にするための方途として無抵抗主義を持ち出したを指摘した。
 会場からは(1)何故「淪落の青春」の舞台はビルマなのか、竹山道雄『ビルマの竪琴』と関わりがあるのか、(2)安吾の無抵抗主義と非転向でありながら生き延びようとする現実感覚との異同は何なのか、(3)主体性と退歩主義がどう関わるのか、(4)ファシズムの問題と無抵抗主義とはどう関わるのか、などの質問が出された。回答として、(1)ビルマの戦局が一番激しかったからではないか。(2)暴力同士で戦うよりは無抵抗主義の方が暴力の総量が少ない。非転向主義を貫くことを必ずしも肯定していない。(3)ヨーロッパと対峙するには暴力と非暴力があるが、安吾はガンジー的非暴力革命の方向性しかないと考えていたのではないか。(4)肉体と精神の問題を合理的ファシズムの遂行と精神論でもって戦争に勝つこととパラフレーズした上で、安吾は前者を重視しているとの回答があった。従来の研究史に於いて、坂口安吾とアジアとの関わりに就て論じられたことが少なく、新たな研究分野を開拓したという意味で刺激的な発表だった。また、安吾の「古代朝鮮」観とも接合し得る問題だけに今後の広がりを予感させた。

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第5回研究集会


「坂口安吾研究会 第五回研究集会 印象記(前半)」
秋山康文

 基調講演は、山口昌男氏によって「安吾とファルスの精神」と題されて行われた。研究発表は、神谷忠孝氏の「坂口安吾とダダ」から始められた。
 山口昌男氏は、笑いは世界の揺るがし方であるとし、そしてその笑いを、日本で初めて深刻に考えたのは安吾であるとした。また、ファルスの源流をイタリアのコメディア・デラルテであるとした。そして、氏は、当時のデアギレフ、コクトーといった人々による、領域(そして地域)越境的な知のある時代の状況、雰囲気を説明し、そして安吾たちの昭和5、6年の運動もそうした運動の一つなのであり、またそれは、伝統的な日本の仏文のスタイルではないものを目指す、強烈な運動であったのだとした。こうした時代性の限定の上で氏は、印象派というよりは象徴派的であり、物語性に依拠していたドビュッシーに対して、安吾がアイデンティファイしていたサティーは非連続的であったのだとした。そして、安吾が採用したのは、分節性や論理性に依拠する「進歩」ではなく、むしろサティの「簡潔さ」「退歩」なのであり、ここに、今日における安吾のファルスの可能性があるのである、とした。氏は、「退歩」とは、余計なものを捨て、そして例えばフェノロサにおける漢字のような、分節性・論理性によっては得られないより広い認識に至る方法なのであり、そしてファルスとは、はっきりと言葉の文脈で示し得るようなものを示そうとするものなのではなく、分節性・論理性が構成する机上性を越えていく力であるのだ、とした。そしてそれが、レオ・フロベニウスの文化人類学、エスノポップス、井上有一の書につながっていくような、芸術の本当の力である、とした。質疑応答・討議から二点のみ並べると、1Q.ドビュッシーとサティーとが領域越境的に共存していたとするならば、なぜ安吾はサティーのみを選択したのか。 2Q.「退歩」は「進歩」の世界を壊し活性化する。しかし安吾はそれだけでなく意味を見いだそうとするものも強く持っていたはず。よって、「道化(トリックスター)」と「ファルス」とには差異があるのではないか。 A.確かに「道化」は身体表現、「ファルス」は言語表現。安吾は当時隆盛を見た浅草には行っていないのであり、そうしたところにやはり差異を見ることが出来る。
 多くの固有名が登場し、不連続な物事を横断していく知の速力が、そのままに感じられるような講演であった。また一つ新しい地図が、私の中に開かれた。
 ファルス=芸術の本当の力が表そうとするものを、未だ分節性・論理性を見い出せないものであるとするのか、それとも分節性・論理性とは全く無縁なものとするのかとで、立場が分かれてくるのであろうと思われた。
神谷忠孝氏は、安吾におけるダダ・ナンセンスは彼のファルスであるとした上で、日本の「ダダ」と安吾のファルスとの比較に入った。いわく、昭和に入って辻潤が「ダダ」においてそのニヒリズムを前面に押し出していた頃、安吾は代用教員を辞め、悟りを目指し、そしてそれを止め、仏語を勉強しダダを直輸入していた。安吾の「エリック・サティ(コクトオの訳及び補註)」において独自なのは、サティーを「落伍者」と呼んだ点である。そして、安吾においては、ドビュッシーを正当派とするならばサティーは非正当派であり、サティーは、風博士のような、勝てないことが分かっていても挑み続けるファルスの体現者なのであった。ナンセンスという語を共有する辻の「ダダ」と安吾のファルスではあるが、しかし、辻や高橋新吉は仏教の中に「ダダ」を見て仏教の方へと向かっていったのに対し、安吾は、仏教からファルスへと向かっていった。安吾の場合、悟りへの憧れを導いた「世を捨てる」という形態への憧れと、小説家になって〈世に出たい〉という希望との対立・矛盾自体を肯定するものとしてファルスが登場していたのである。このように方向は異なる両者ではあるが、そこには共に《無私》への志向性が見られるのであって、当時の青年達を《無私》へと向かわせたものは何であったのだろう、と問題が投げかけられたところで時間となった。質疑応答・討議から二点のみあげれば、1Q.左傾化し、イデオロギーに向かった青年達の《無私》と安吾のそれと、どこが分岐点になるのか。 A.「進歩」を信じるか否か。自分を何か巨大なものに賭けたいという衝動の有無。 2Q.二つの〈ダダ〉の定義、言分けは? A.安吾の場合は「ダダ」という語は使わず、東大仏文系とは異なる仏文学の直輸入であった。安吾の「悟り」(《無私》)をよく体現していると思われるのは「真珠」のガランドウという生活者。ここに〈形の淪落はいやだ〉といった安吾の『ダダ』と、大正末期で消えた「ダダ」との違いが表れている。
項目別に見やすく整理されたレジュメにも助けられ、私自身の中の《無私》への傾向、衝動までも、一つ一つ掘り起こされる発表であった。
 「真珠」において《無私》を考えようとする場合、私は、戦後の「特攻隊に捧ぐ」などにつながっていくような「無償の行為」といった《無私》の在り方のみを考えていた。安吾における《無私》の問題を、より多くの筋で、あるいはより重層的に、考える視点を提示して頂けた。
 ファルスによる笑いは、まず、「進歩」「論理性」「イデオロギー」「自意識」といったものの否定、すなわち建築・構築・構造といったものの破壊によって現れる。ここで例えば「坂口は堂々たる建築だけれども、中に這入ってみると畳が敷かれていない感じだ」という有名なフレーズは、まず、既存の建築観を破壊している。そしてその結果現れたこの新しくまた〈滑稽な〉建築を、ファルス=芸術の本当の力によって初めて包括的に示された〈私の形〉である、などと言ってみることは、はたして許されるのであろうか。周知のように、安吾が笑ったというこのフレーズは、安吾自身によって作られたものではないのだけれども……。


「坂口安吾研究会 第五回研究集会 印象記(後半)」
土屋 忍

 坂口安吾研究会には、今回はじめて参加した。会の性格やこれまでの雰囲気はよくわからないが、安吾の研究会なのだから…という勝手な思い込みはある。私が安吾の作品に出逢ったのは中学1年生の時である。学校というものの意味がわからずに腐っていたところ、ある先生が坂口安吾という名前を教えてくれたのである。以来、角川文庫の『夜長姫と耳男』や『堕落論』、そして河出書房の『文芸読本 坂口安吾』は、主体的にさぼり積極的に生きる口実を与えてくれる処方箋になった。図書館で手にする冬樹社版の全集は大抵ボロボロで、ところどころに線がひかれていた。その手触りが妙に嬉しかった。ちくま文庫の全集が完結した頃に大学を卒業して就職したが、自主留年の道を選択した政治学科の友人は、全巻揃った安吾全集を読んでいた…。
 近藤周吾氏の発表も、自身が安吾全集と出逢った時の話から始められた。そして、「『ふるさとに寄する賛歌』は文学のマグリットである」という初読の際の印象を学問的に確かめたいという宣言がなされた。個人的な安吾体験を生かそうとするその率直な姿勢をどう捉えるかについては好みの問題でもあるが、私は共感を覚えた。近藤氏は、これまで「ふるさとに寄する賛歌」は、自伝的青春小説として読まれるか、あるいは「ふるさと」論(柄谷行人)に短絡化させて読まれるかのどちらかであったが、むしろ「風博士」や「木枯の酒倉から」のような作品と同様にファルスとして読み直されるべきではないかと主張する。発表題目「ふるさとからファルスへ―『ふるさとに寄する賛歌』論―」がそのまま結論なのである。それでは「ファルス」とは何か。氏によれば、「言語自体が引き起こす運動」「単に現実を代行するものだけに言語を使用するという立場とは異なる概念」となる。この定義については、会場から質問も出たが、安吾の「ファルス」は「アンチ・リアリズム」としてあったという従来の指摘を踏まえたものであった。レジュメには、各種辞典類を引用した「ファルスの語誌」も示されており、安吾的ファルスの独自性を効果的に浮かび上がらせていた。さらに氏は、テクストの具体的な分析をおこない、「風景としての私」を設定した上で、「言葉自体の乱痴気騒ぎ」(言葉自体が引き起こす運動=ファルス)の生起を示した。発表の冒頭で触れたマグリットの「偽りの鏡」(1935)に通じるような内と外とが融けあう絵画的イメージをそこに確認し、発表を終えた。
 会場からは、先行する読みを形作ってきたとも云える評論家諸氏より、今回の発表のもつ意味自体を否定する発言が相次いだ。そして、発表者みずからが「旧世代」「新世代」という言葉を用いて交通整理する中で、いくつかのやりとりが続いた。結局は、「ふるさとに寄する賛歌」という作品の評価をめぐる対立が明確に浮上したように思われる。つまり、安吾の後期の作品は面白いが初期の作品の大半はそうとは云えない。高く評価することのできない作品を何とかして救い上げるために、安吾文学全体を論じる中で好意的に解釈してきただけなのだという立場(旧世代)に対して、「ふるさとに寄する賛歌」はそれ自体で充分に面白い作品であるとする立場(新世代)が既に登場しているのが現状なのである。「旧世代」からすると、先行研究との差異をつくりだすための足掻きのようにも見えるが、そうした既存の読解基準から自由な「新世代」の読み手たちの中には、坂口安吾の人気やネームバリューとは無関係に、「旧世代」には予想もつかぬ作品が好きになり、思わぬ作品が入り口になって安吾文学全体を好きになる者もあるに違いない。若さを強調するかの如く冒頭に据えられた初読の印象談は、案外仕掛けだったのかもしれない。発表意図を全否定されても、いささかもめげることなく応答する近藤氏の立ち居振舞いが、鮮烈な印象を残した。
 続く中山昭彦氏の「安吾と〈運動〉―"物質性"と"逃れ去るもの"―」は、日本では80年代から90年代にかけて定着した方法論や専門用語を自家薬籠中のものにした研究者ならではの雄弁な発表であった。中山氏の戦略は、言葉の運動ではなく身体の運動に着目し、安吾における戦前・戦後を分かつものとしての〈運動〉への関心を抽出することにあった。氏が「戦前の安吾」と言う時には「日本文化私観」が基点にあり、「戦後の安吾」という時には「青鬼の褌を洗う女」が中心に据えられていた。「日本文化私観」に関して中山氏がおこなった3つの問題設定を、氏自身の言葉で示すと次のようになる。
 (1)「日本文化私観」における文化的雑種性の問題
 (2)外国から接ぎ木される文物の他者性の問題
 (3)内部(物語・意味)からの内破、脱構築を通じてネガティブに外部と出会うのか、外部に対するポジティヴで即時的な肯定から内部の喧噪へ向かうのか、という問題
 これら3つの問題をめぐってなされた回答についても、氏自身の言葉で記しておく。(1)に対しては、「『日本文化私観』には実利主義や功利主義とは異なる倫理的な姿勢がみられる。加藤周一氏の『雑種文化論』のような余裕も超越性もない。日本及び日本人は、常に他者との際どい交渉、闘争の場に曝されている。絶えざる外国との交通によって必要なものを発見しながら変容していくもの、それが日本であり日本人である」という答えであった。
(2)と(3)に対しては、「外部性(外国との交通)は担保されている、他者性も担保されている」という言葉だけが答えとして提示され、まもなく〈戦後〉を射程にした発表へと移行した。
 以下、発表者の論理展開を追うとこうなる。戦前の「日本文化私観」では外部性、他者性が担保されていた。しかし、戦後の「青鬼の褌を洗う女」の「サチ子」は、明らかに外部から「隅田川」(「相撲取り」)をみている。「隅田川」にとっては「シマッタ」でケリがついてしまう相撲という〈運動〉の頂点において、「シマッタ」に統一されない「圧縮された無数の思考」をみる視点が「サチ子」にはある。この「無数の思考」を「ファルス」と換言することもできるだろうし、未完の小説「火」における「スポーツに於ける直覚」(の速さ)もまた「シマッタ」を除去する方途としてみることができるだろう。さらには、常に相手との関係において発現する「速度」の問題について水泳競技を例にとって言及している「安吾巷談」にも、〈運動〉の言語化がみられる。
 したがって、比喩的に用いられている短い表現(「無数の思考」「直覚」)に注目してみるならば、戦後の安吾のテクストには、外部の差異からみる視線が明確化されており、肉体の複雑な〈運動〉が一瞬に凝縮された差異として、他者性を帯びて呼び込まれている。そして速度にも差異をみる微分化が認められる。よって、「日本文化私観」にみられる可能性(絶えず他者と交通して変容する具体性)を基軸にしながら、それを過剰なまでに具体的な肉体の〈運動〉として語る術を戦後の安吾は身につけたのだと言える。肉体の〈運動〉を基点にしてみると、戦後の安吾は大きな態度の変更をしているのである。そのきっかけとして、戦中の空襲体験ならびに「空襲」を書くという行為があったのではないだろうか。以上が結論と展望である(できるだけ発表者の語法に忠実に要約したつもりだが、間違い等があればもちろん要約者の責である)。
 作品本文の細部を論理的に結びつけてまとめた非常に明快な発表であった。「学会」発表としては非の打ち所のない模範的なものだと言えそうである。実際素直にそう思う。しかし、私には少々退屈であった。なぜだろうか。今すぐに思いつく理由を3つほど挙げておきたい。ひとつには、"逃れ去るもの"としてある捉え難い肉体の〈運動〉を言語化する安吾の表現活動が、どれだけの独自性をもっていたのか、という素朴な疑問が最後まで消えなかったからである。たとえば伊藤整の「飛躍の型」(1929)、阿部知二の「日独対抗競技」(1930)、吉行エイスケの「ラグビー夜話」(1931)といったいわば〈スポーツ小説〉として知られた既存の作品との文学史的関連については、全く言及がなかったので、そういう意味で少し物足りなさを感じたのである(聴衆は欲張りである)。安吾の〈運動〉に関する記述に関連して、「身体の動きは直接には示されない」という特徴の指摘があったので、おそらくそのあたりにヒントがありそうである。なお、同時代のスポーツ観、スポーツ論についても一切触れることなく終ったので、全体に脆弱な印象も受けた。
 また、戦中の安吾の空襲体験を〈運動〉の一環として捉える中山氏の方法は、安吾は戦争を〈交通〉の一環として捉えていたと強調する柄谷行人氏の論を想起させて確かに興味深かったのだが、漠然とした不安も覚えた。安吾の「戦争」観を追認し、「戦争」に対する安吾的態度を敷衍するような作業が有力視されると、眼前の「戦争」と向き合うことから巧妙に回避する姿勢が流布されるのではないだろうか。「戦争」に対する処世術として安吾を受容することが簡単に許されるのだろうか。そうした単純な疑心が宙吊りにされた気分でもあった。「9.11事件」を強く意識して企画されたある学会のシンポジウムの席上で、「小泉もブッシュも馬鹿だ!」と吐き捨てアメリカの軍事行動を非難された氏の言葉を拝聴していただけに、なおさらそう感じた。
 最後のひとつは感覚的な問題であるが、「差異」「外部」「他者」「担保」「微分」といった用語や特定の言いまわしが最後まで続いたので、ノスタルジックな場所へと誘われ、些かアンニュイだった。シンプルな内容だっただけに、なおさら気がそがれたのかもしれない。
 安吾の研究会なのだから、忌憚なく、腹蔵なく、とりとめもなく、といった雰囲気なのだろうと勝手に推測して出席した。当日は延べ90名の参加があったそうだが、実際フランクな感じであった。先にも触れたように、発表者を全否定する発言も飛び出し、いわば肉声による力強い応酬が繰り広げられるほどに屈託のない会であった。印象記を書くにあたっても同様に臨んだ次第である。

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第4回研究集会


「坂口安吾研究会第四回研究集会印象記(前半)」
藤原耕作

 まず、簡単に内容をまとめることから始めよう。
 基調講演「坂口安吾とアナーキズム」において、柄谷行人氏は、自らが編集委員を務めた筑摩書房版『坂口安吾全集』の編纂意図について触れ、ジャンル分けを排して作品を年代順に配列したのは安吾文学そのものがもつノン・ジャンル性に由来していることを述べた。そして、そのノン・ジャンル性は、十八世紀の啓蒙主義者・百科全書派に類似しているという。啓蒙主義は、たとえばロマン主義によって否定されたが、ロマン主義者が感情によって理性批判をしているのに対し、カントを初めとする啓蒙主義者は理性による理性批判を徹底している。それはちょうど、道徳・宗教・国家などという「カラクリ」を徹底的に認識することで解体しようとする安吾が一貫して持ち続けている姿勢に通じるものなのだと柄谷氏はいう。
 安吾は、社会制度は簡単に取り替えがきくが、「人間」は変わらない、ということを言う。柄谷氏によると、安吾の言う「人間」も、一種の社会制度(家族など)を指しているのだという。つまり、簡単に取り替えのきく制度と、取り替えにくい制度とがある。それはちょうどカントの区別した二種類の仮象、単なる仮象と超越論的仮象とに対応している。カントは結局人間存在の有限性の問題を考えているといえるが、カントが考えなかった性や死の問題を考えたのがフロイトである。安吾はフロイトを批判しているが、そのフロイト批判は後期フロイト的である。性や死は人間の中に不可避的に出てくる「カラクリ」=超越論的仮象である、と柄谷氏は述べる。
 国家という「カラクリ」を解体しようともくろんでいた点で、安吾はアナーキストであったといえる。しかし、普通のアナーキストが反知性的で結局はファシズムに取り込まれていったのに対し、安吾は終始一貫して知性的・啓蒙主義的であった。すなわち、啓蒙主義的なアナーキスト、というのが柄谷氏の提示する坂口安吾像である。
 武田信明氏の研究発表「安吾の「はじまり」」は、安吾の初期評論「ピエロ伝道者」(昭和六年)から「FARCEに就て」(昭和七年)への深化の過程に、ジャン・コクトオ「エリック・サティ」の翻訳がからんでいた、という主張をその中心としている。
 武田氏によると、コクトオのサティ論は、「芸術史をジャンルの交替としてとらえること」、「それが新しい構造(形式)との交替と関連すること」、「さらに言語(あるいは曲の構成要素としての音符)そのものに目をむけること」の諸点において、ロシア・フォルマリズムとの同時代現象としての関連が想定できる、という。サティは、ホモフォニー全盛の時代に、時代遅れのポリフォニーを学んだという。このことも、武田氏の指摘通り、バフチンの『ドストエフスキー論』における用語を連想させて興味深い。
 さて、研究発表後の自由討議においては、主に柄谷氏の講演に質問が集中していたので、ここでも柄谷氏の講演に話を戻して、若干の印象を書き記しておく。私にとって最も興味深かったのは、柄谷氏が安吾の戦後の仕事の中で古代史もの(以下安吾古代史と呼ぶ)と戦争放棄の主張とを高く評価しているという点である。
 まず、前者についていえば、柄谷氏の安吾古代史評価の中心はその天皇制批判にあるようだが、私見では天皇制批判に力点を置いてしまうとその魅力はすくいにくくなるように思う。というのも、安吾は基本的に天皇家は万世一系ではないということを証明することによって天皇制の根拠を無化しようとしているのだが、おそらくいくらそれを証明することに力を注いでも現実に存在する天皇制には一指も触れることが出来ないからだ。また、天皇家の万世一系を批判するために安吾古代史が唱える蘇我天皇論や飛騨王朝論は、内容的にはいわゆる「トンデモ本」の域を遠く出るものではなく、史論としてみる限り厳しい評価に堪えうるものではない。
 後者の戦争放棄は、たとえば安吾が「野坂中尉と中西伍長」(昭和二十五年)の末尾などで主張しているものを指していると思われるが、これは今まで私にはうまく理解できずにいたものである。安吾の無抵抗主義は徹底していて、「どこの国が侵略してきて、婦人が強姦されて、男がいじめられ、こき使われても、我関せず、無抵抗」というのだから、のみこみにくいのは当たり前だ。ただ、柄谷氏の講演を聴き、少し理解するきっかけがつかめたように思う。柄谷氏がカントを援用しながら述べるところでは、人間が自らの生存のために行動することは否定されるべき事ではないが、そうした行動は「自由(自己原因的)」ではない(『倫理21』)。そういう意味で、あえて無抵抗を貫こうとすることは「自由」な選択なのだといえる。このことは、安吾が『安吾巷談』において、つねに「自由」「自由意志」を強調していることとの関連が想定できるのではないだろうか。


「坂口安吾研究会 第4回研究集会 印象記」
大原祐治

 今回の研究集会のテーマであった「坂口安吾と一九三〇年代」に対して為された杉浦晋氏と加藤達彦氏からの発表は、いずれも問題提起的で刺激に富む内容であった。
 まず杉浦氏の「『文章の一形式』の同時代性―『無形の説話者』の帰趨―」と題した発表は、近年『吹雪物語』との関連で注目されてきたエッセイ「文章の一形式」を、あくまで同時代の位相の中で評価し直そうという問題提起から始められた。このエッセイを改めて精読する氏は、そこに語られる「四人称」という用語が横光利一「純粋小説論」の提示する曖昧な比喩に止まらず、「私」という一人称をもって物語に直接介入する機能として積極的に語られたものだとし、しかもそのような人称自体を消去したものが「無形の説話者」なのだということを確認することで、この概念=装置を一人称「私」としての「四人称」をも相対化するような、人称表記に規定されない超越論的な語りの主体として定位した。更に氏は、このような「無形の説話者」の獲得へと到った安吾の道程は、ドストエフスキーを論じる過程で解釈のための超越的コードを失って失語する小林秀雄の「クリティカルポイント」(山城むつみ)と並行していると指摘し、一九三〇年代の安吾・小林・横光に関する刺激的な見取り図を鮮やかに提示した。
 しかし、一方でこの見取り図作成のために切り落とされた問題もないとは言えない。「無形の説話者」を、テクスト上での具体的実践を細かく問わずに〈超越論的な語り手〉だとすることは、むしろこの概念を単に実体としての坂口安吾というひとりの作家主体に還元する素朴な作家論を召喚してしまわないだろうか。全てが〈超越論的〉に統制されているのだと指摘するに止まるのならば、氏が問題にする物語内容と物語言説の乖離という状況など、はじめから存在していないことにもなりかねない(その意味で氏の使っていた語り物・落語の比喩は危険である)。思うに、小林がドストエフスキーを論じながら陥ったクリティカルな失語は、安吾が野心的に『吹雪物語』を書き進めながら陥った失語(執筆の中絶)にこそ似ている。その意味で杉浦氏の見取り図は、もう一度『吹雪物語』のテクストへと還元されたときに一層の説得力を持つだろう。それはまた、氏自身今後の課題にしたいと述べていた石川淳との対比においてより鮮明にもなろう。
 加藤達彦氏の「『生』をめぐる抗争―『吹雪物語』から「日本文化私観」へ―」と題された発表は、安吾が多用する「生」という言葉を、「生命」・「生活」あるいは「性」とパラフレーズしてみることで30年代から40年代にかけての安吾の思考を大きく捉え、従来の「日本文化私観」論あるいは『吹雪物語』論の乗り越えを図らんとする野心的な試みであった。氏によれば、「簡素」な茶室も「豪華」な東照宮も「共に同一の『有』の所産」であり「共に俗悪である」とした上で「俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さ」を持つものの方を称揚する安吾の思考は、「伝統」/「いかもの」(キッチュ)あるいは「日本」/「西洋」というタウト的な二項対立を解体しているのであり、〈人間〉の〈生〉の問題にこそ眼を向ける安吾の思考にこそ独自性がある。「日本文化私観」=合理主義によるタウト批判という図式の解体は、極めて明晰で説得力のあるものであった。
 更に氏はエッセイ「日本精神」を参照し、そこで安吾が「小説を制作した後において小説の結果として自我を発見する」ことと「日本精神」の「発見」に相同性を見出していることに注目する。「小説の創作」という比喩がここで持ち出される背景に30年代の安吾における〈文学〉的格闘の遂行を想起する氏は『吹雪物語』における安吾の試行にその具体的な足跡を見るのだが、この見取り図は『吹雪物語』をある種の挫折と捉える点において、この小説に「無形の説話者」という超越論的主観の獲得を見る杉浦氏の発表とは全く対照的である。ここで加藤氏が「日本文化私観」の思考は『吹雪物語』という「小説の結果として」事後的に「発見」されたとするためには、〈恋愛〉あるいは〈生〉・〈性〉といった語をテーマとして〈聖〉化させ、「分裂」的状況に追い込まれた「近代的主体」の「救済」の物語というテーマ論に収斂させるよりは、あくまで方法論的問題において杉浦氏の立場との差違を明瞭に示す方が有効だろう。すなわち、加藤氏が繰り返し言及した「安吾における〈文学〉の問題」も、さしあたり「安吾における〈小説〉の問題」として一度深化されるべきではないかとも思われたのだが、加藤氏と杉浦氏による議論は充分に展開されず、会の進行は専ら柄谷行人氏による魅力的な「啓蒙」に傾いた。研究発表者同士、あるいはフロアと研究発表者との間でのやりとりの時間が十分に確保されなかったことは残念であり、この研究会が謳う〈批評と研究の越境〉の難しさについて考えさせられもした。

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第3回研究集会


「坂口安吾研究会 第3回研究集会 印象記」
太田鈴子

 今回の特集テーマは、「坂口安吾とフェミニズム――性のエクリチュール」というテーマで、会場は、東京工業大学、百年記念館ということだった。私にとって東工大は、かつて江藤淳氏、川嶋至氏、そして現在は井口時男氏とつながる場所で、理系の大学ということは知っているが、文学の場というイメージがとても強い。特集テーマにも関心があったが、訪れる機会のあまりない、東工大にもかなり興味を持って参加してみることにした。
 百年記念館はやわらかな雰囲気の建物であった。研究集会に選ばれた会議室も、照明があわく、椅子に座ると影の中にとけこんで、存在が意識から消えてしまうような気持ちがした。緊張感や構えが消えていくような中で、小谷真理氏が「鬼と桜と女――坂口安吾と夢枕獏」という題名で《基調講演》を行った。
 小谷氏は、SF評論家であり、あの一世を風靡した「エヴァンゲリオン」のジェンダーについての分析などがある。それをおもしろく読んだことがあったが、今回も、「鬼」をキーワードとして、夢枕獏から、大原まりこ『吸血鬼エフェメラ』、萩尾望都『ポーの一族』まで、次々と過去に夢中で読んだ記憶のある物語が呼び起こされる、なかなか興味あ ふれる展開の話だった。光と闇の会場の雰囲気が、ますます小谷氏の伝奇幻想話に拍車をかけたと思われる。
 夢枕獏編集『鬼譚』に入っている手塚治虫「安達ヶ原」は、安達ヶ原の鬼を手塚治虫が、宇宙に残され男を待ち続ける女として漫画化したものだが、男は宇宙船内で冷凍催眠に入っていたので年をとらず、女だけが宇宙で年をとる。その設定を小谷氏は、平安から未来へと時空を移動した浦島現象の物語であることと、男に添い遂げたいと男を待ち続ける 女は、結局怪物化せざるをえないと、そのジェンダー観を指摘した。夢枕獏の「檜垣――闇法師」は平安の頃、若かった頃の美しさを求めてきた男に、小面がはずれ老いた醜顔を見られたことから死んでも魂が浮遊し、死霊として若い男に自らの怒りをはらし続ける女を、盲目の法師が成仏させる。この話についても小谷氏は、男に憑依せざるを得ない女の ジェンダーを読みとる。そして、誰かに憑くというイメージから話は吸血鬼物へと発展し、『吸血鬼エフェメラ』について日本における女性性が吸血鬼によって示されていると解した。男の堕落に力をかす女性の性的役割、それは鬼や山姥として、広く物語によって再生産されている。日本文化の中では、男性が自ら作った自身のマイナス面を女性に負わせていると、日本における男女の依存関係が、一方的に男性優位のジェンダー観として再生産されていると、半ば強い調子で話を終えた。
 小谷氏は、日本に行われている物語に固定した女性性のイメージがあり、それは男性の側から男性優位のジェンダー観として作り出されているという全体を見通して話されたが、坂口安吾はその中でどうなのかと、小谷氏の話のあと考え続けることになった。
 その一つの答えは、4人目、最後の発表者であった林淑美氏によって出された。
 林氏は、「堕落論」が単に旧道徳批判のために書かれたものではなく、道徳意識がもっとも効力を持つ制度の再生産過程を切断することに照準を合わせたことに、これからもラデイカルであり続ける存在となりうるというところから話が始められた。それは安吾のジェンダーのイデオロギーについての説明でもあった。安吾作品として「青鬼の褌を洗ふ女」が取り上げられたが、語り手の「私」について、人との関係を実態を元に想像し、人の考えそうなことで、自分の生き方を規定しない女、林氏の言葉で言えば「思いこみを可能にする表象構造の内部にいない希有な存在」であるとし、「ジェンダーのイデオロギーは彼女の存在そのものによって根底からあばかれる」と述べた。
 林氏によって、安吾が、人が人との関係からの思いこみによって再生産し、育てていく幻想とも言えるイデオロギーを認識していたことが明らかにされたと言える。林氏が資料にひいたジュデイス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の一節「男の主体は、意味を編みだし、よって意味付けをおこなうものであると、見えているだけである」は、まさに林氏の分析の言い換えと読めるのである。
 前後してしまったが、小谷氏の後、研究発表の最初は、ジグラー・ポール氏「坂口安吾と女性の観点」であった。安吾の『日本文化私観』をブルーノ・タウトの『ニッポン』『日本文化私観』など日本文化に関する作品のパロデイとして読む立場を支持し、安吾のジェンダー観がパロデイ的にタウトを転倒させたとの考えを、多くの例文をあげて論証された。ジェンダーの見方をより鮮明にするため、ポール氏は、その論証にタウトの日本文化観が大衆より貴族的な文化、男性的な文化を指示していることなどに、ニーチェとの共通項を見いだした。そして安吾の言述が、そのニーチェに共通するタウトの男性中心的権力的な日本文化に対する視点の裏を表象しようとしているとして、安吾のフェミニズムの観点を浮かび上がらせようとした。興味をひかれる問題提出であったが、タウトの男性的ジェンダー観の獲得のために引用したニーチェの扱いが不明瞭であったことが惜しまれる。後の質疑でも、昭和17年当時ニーチェの思想がどう展開されていたかという問いかけがあったように、ニーチェのテクストの読解は今なおなされ、90年代のフェミニズム論においても問題とされている。時間の関係もあったと思われるが、ポール氏の発表の根幹でもあったので、ニーチェ論がより厳密であれば、日本文化私観に読みとれる安吾のジェンダー観もより鮮明になったのかと思われる。さらに、そのためにはタウトのオリエンタリズムへの言及が必要でもあったろう。
 第3回の研究会は、小谷氏が、ジェンダーイデオロギー再生産の指摘をし、安吾がそのからくりを見事に見抜いていて、女語りの作品としていたという林氏の結論を得るという、初めからしくまれたような展開の研究会であった。後の予定があって、質疑の時間の最後までいられなかったのは残念だったが、その光と闇の心やすらぐ会場と共に、いつまでも残るものとなるだろう。


「坂口安吾研究会 第3回研究集会 印象記」
加藤達彦

 研究集会後半は、高原英理・林淑美、両氏の発表であった。
 高原英理氏「坂口安吾の等身大の知」は、「無垢」という言葉をキーワードに戦中から戦後にわたる幅広い安吾の小説群を見事に整理した発表であった。高原氏は、まず、実生活的題材から書かれ、等身大でものを見る安吾のテクストには、当時にあっては異例に女性認容的な部分があることを指摘した上で、「桜の森の満開の下」等の〈伝奇的幻想小 説〉においては、その等身大の視線が確保されず、無垢で高慢な「運命の女」としての女性の優位性が、それを仰ぎ見る男たち自身の投影によって、天皇制にも似た「実質なき無実の形式による君臨」として描かれ、ジェンダー的不均衡の圧力が噴出してしまっている事態を嘆じつつも、それに対して「無垢」を排除することによって「実質的」知の達成 がなされた「日本文化私観」や「堕落論」、「金銭無情」といったテクストでは、物質的な必要性によって葛藤が生起する唯物的世界が展開されており、そこにこそ安吾の最良の認識が示されていると結論された。これまでにない新しい角度から安吾のテクストを切り開くその手際のよさには感服したが、ただ、今回の氏の発表は、自身最初に断っておられ たように、些か実証的な部分が希薄で大枠な見取図を描くことに終始したという印象を拭うことができなかった。いずれも安吾の小説であってみれば、その一方を称揚し、一方を貶める分析では、問題を単純化しているに過ぎないとも見えてしまう。氏には、逆に安吾のテクストにこうした差が生じている理由をもっと詳細に尋ねてみたい気がした。
 林淑美氏「道徳批判としての「堕落論」またはイデオロギー批判としての「青鬼の褌を洗ふ女」」は、最初に、戸坂潤の思想を引き合いに出して、安吾の「堕落論」・「続堕落論」といったテクストが、単なる政治制度としての旧道徳だけでなく、たとえば、戦後日本にも続く〈奉戴〉という制度の再生産過程をも切断していることを指摘された。そし て、さらには、こうした主体のカテゴリーが変更された安吾のテクストにおいては、個人と国家をつなぐ制度=イデオロギーもが批判され、そのことは「退屈」を楽しむサチ子のような表象不可能な特異な主体(セクシュアリティ)を生み出し、ジェンダーイデオロギー批判としても考えられると論じられた。林氏の発表は、研究史において、もはや手垢に まみれたとも言える安吾の「モラル」とか「孤独」といった言葉を根本から問い直し、そこに新たに根源的な彼の発想を見出していく誠に刺激的なものであったが、会場からの質問にもあったように、前半部と後半部の繋がりに関しては、発表時間の兼ね合いもあってか、やはり、少々わかりづらい面が残ったように思う。
 全発表後の自由討議では、様々な質問や意見が出される中、セクシュアリティからジェンダー、クイア理論にまで話題が及んだように記憶している。それは安吾の文学がまさにそうした今日的な課題の解決に資することの証左でもあろうが、反面、議論の進行が、安吾のテクストからどんどんと離れていってしまったのは、残念であった。柄谷行人以来、 近・現代の思想史の中に安吾を位置づけ、その可能性を探る試みは、今日のカルスタ/ポスコロの流行とも相俟って、確かに魅力的な研究ではあるが、当然のことながら、安吾の個々の作品を忠実に読み辿り直す作業を怠って、徒に坂口安吾万歳を唱えるだけであれば、そのこと自体はさして意味のあることとは思われない。とすれば、安吾研究会では、も っと愚直に作品読解に関わる素朴な質疑応答が活発に取り行われてもよいはずだ。
 無論、今回の研究集会が、先に述べたような安易な図式に陥っているということではなく、それとは別に、討議のやり取りを拝聴しながら、一方で安吾をも含めた昨今の文学研究の動向を想起しつつ、私自身は敢えて文学の領域に踏み止まる勇気を保持し、肝に銘じておきたいと改めて感じた次第であった。

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